the hello moon 頑張れ
水都音楽祭2022 オンラインオーディション【オールジャンル FINAL】
開催日: 2022/08/13
8月13日にとうとうファイナルですね(о´∀`о)待ちわびたというかなんというか、、、ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘
そして僕が応援しているのはthe hello moon
もともと僕じたいロックバンドにまったく興味がなく、、、レゲエミュージックやヒップホップなど、ブラックミュージックが好きで大阪のライブハウスに良くいってました。
the hello moonのライブにいったのは本当にたまたまで、違うライブに行ってたんですが、(3Fのライブハウス)
そしてそのライブがおわり、時間もはやかったので、2階のライブにいったのがきっかけです!
最初見た時の印象はボーカルの女性がカッコいいし歌もうまい!
そして何よりすごい綺麗♪───O(≧∇≦)O────♪
そして、ボーカルとギタードラムの連携がしっかりできるε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘
カンペキですʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ
出番が終わった時にたまたまメンバーの人がいたので、バンドのジャンルを教えていただき、ロックバンドとききました、
そもそもロックバンドってなんだろ?とおもいかなり勉強いたしました!
ロックは音楽のジャンルのひとつです。1950年代のアメリカで演奏されていた黒人音楽であるロックン・ロールやブルース、白人音楽であるカントリー・ミュージックなどから発展しました。各時代の若者たちの心をつかみ、様々に形を変えて今日に至ります。
アメリカで生まれたロック・ミュージックはイギリスに渡り、様々なスタイルのバンドやアーティストが生まれました。それぞれの国の特徴を持ったロックのスタイルは、USロックやUKロック、またはアメリカン・ロックやブリティッシュ・ロックと呼ばれています。
ロックの発祥は?
街角でブルースを演奏する人々
ブルースがロックン・ロールやリズム・アンド・ブルースに発展を遂げ、カントリー・ミュージックのビートやハーモニーと混ざりあった結果ロック・ミュージックは生まれました。
初期のロックン・ロールは主に黒人の音楽でしたが、第二次世界大戦を境として人々の移動に合わせて各地に広がっていきました。そしてエルヴィス・プレスリーの登場が白人たちにもロックン・ロールを聞くきっかけを与え人気を急上昇させました。
エルヴィス・プレスリー
カントリー・ミュージックの影響を大きく受けたロックン・ロールはロカビリーとも呼ばれ、スターのように輝くエルヴィスに当時の若者たちは皆憧れたと言います。そんな中イギリスに現れたビートルズによって、ロックは一気に人気の音楽ジャンルへと変貌していくのです。
ロックの特徴
エレクトリックなバンドサウンド
ロックの特徴的な楽器であるエレキギター
ロックのサウンドを決める大きな特徴のひとつは、エレキギターやエレキベースなどに代表されるエレクトリックな楽器の使用です。特にエレキギターはより過激な音を出すため意図的に音を増幅し、音色を歪ませるなど大音量での演奏が主流となりました。
また鍵盤楽器はアコースティックピアノも使用されていましたが、音量の問題でハモンドオルガンを演奏するバンドも多く存在しました。しかし1960年代に登場したシンセサイザーによって、キーボードのロックでの役割は大きく変化していきます。
思想やファッションにも影響を与えた
パンク・ファッション
ロックの歌詞にはパンク・ロックなどを筆頭に体制や政府に対する反発や戦争反対など、世間の声を代弁するようなものが多いのが特徴です。フォークロックの中心的アーティストであるボブ・ディランは、人々の心に刺さる詩的な歌詞を書き続けノーベル文学賞を受賞しています。
ファッションにおいてもロックは大きな影響を及ぼしています。パンクロックの破れたTシャツやデニムにアクセサリーを合わせる個性的な衣装や、グラムロックのアーティストに見られるメイクなど自己表現のための様々なスタイルが生まれました。
ロックの歴史から見るロックの魅力
現在ロックという音楽はポップスと同様、大衆の音楽として大きな地位を築いています。その背景には様々なロック・スターが現れ人々を魅了するとともに、時代時代の若者の不満や意見を言葉にする表現者としての立場を確立してきました。
ロックの歴史を知ることで好きなアーティストやバンドのルーツや影響を受けた音楽を知ることが出来るとともに、新しい音楽を知るきっかけにもなることが最大の魅力と言えるでしょう。
ロックの主なジャンル
ロックンロール
チャック・ベリー
アメリカの黒人音楽であるブルースやゴスペルから発展して1950年代中ごろに現れました。チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」などは日本でもよく知られていて、ハリウッド映画の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で主人公のマーティが演奏することでも有名です。
またロックン・ロールの中でも、カントリー・ミュージックの影響を強く受けているエルヴィス・プレスリーらのような白人が演奏するものをロカビリーと呼びます。
ハードロック
レッド・ツェッペリン
1960年代以降のロックのスタイルであるブルース・ロックを、さらにラウドで大音量にしたハードロックが1960年代後半にイギリスで登場します。「レッド・ツェッペリン」や「ディープ・パープル」など多くのハードロックバンドが生まれ、現在でも根強い人気を誇っています。
またエレキギター奏者の個性が注目されるようになり「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジや「ディープ・パープル」のリッチー・ブラックモア、「ジェフ・ベック・グループ」のジェフ・ベックなどのギターヒーローに憧れ、ギターを始める若者が大勢現れました。
プログレッシブロック
ピンク・フロイド
ハードロックと同じくイギリスで生まれた「革新的」「進歩的」を意味するプログレッシブロック。クラシック音楽や民族音楽など様々なジャンルとの融合や、アルバム全体を通してひとつの作品とするコンセプト・アルバムの考え方などが特徴です。
プログレッシブロックを代表するバンドには「ピンク・フロイド」「イエス」「キング・クリムゾン」などがあります。演奏者たちは高度な技術を持ち、難解なリズムやフレーズを演奏しました。また当時としては高価だったシンセサイザーなどの最新鋭の楽器も頻繁に用いられていました。
パンクロック
セックス・ピストルズ
1970年代中ごろのアメリカ・ニューヨークでパンクロックは生まれ、わずかに遅れてイギリスのロンドンでもパンクは演奏され始めます。パンクロックのミュージシャンたちは、当時チャートを占めていたハードロックやプログレッシブロックを産業ロックだと激しく攻撃しました。
セックス・ピストルズやラモーンズなどが有名で、現在の日本の音楽にも大きな影響を与えています。彼らが身に着けていた服装にも注目が集まり、ファッションの世界でもひとつのスタイルとして確立されました。
ヘヴィメタル
ドリーム・シアター
通称メタルと呼ばれるロックのサブカテゴリのひとつですが、ハードロックとの明確な違いはあいまいです。CDショップでも「HR/HM」などと表記されることも多く、楽器の編成などはハードロックとほとんど変わりません。
しかしヘヴィメタルはその名前の通り、よりヘヴィであることが重要視されます。エレキギターはより歪んだ音色でより低い音を鳴らし、速弾きと呼ばれる高速での演奏が求められます。ドラムなどは低音部の太鼓であるバスドラムを2つ使い、隙間が無いように叩き続けるツーバスもよく見かけます。
代表的なアーティストはブラック・サバス、アイアン・メイデン、ドリーム・シアターなどがいます。
オルタナティブロック
ニルヴァーナ
オルタナティブロックは1980年代にアメリカで生まれました。1970年頃の産業ロックへの反発から生まれたパンクロックの流れを汲んでいます。「型に収まらない」という意味を持っていてグランジやミクスチャーなどもオルタナティブロックに含まれます。
1989年にデビューを果たしたグランジを代表するバンドであるニルヴァーナや、ロックとラップの要素を合わせ持ったミクスチャーロックであるレッド・ホット・チリ・ペッパーズなどの存在がオルタナティブロックの存在を一躍有名にしました。
世界のロック史
1950年代―ロックンロールの登場
若者を熱狂させたエルヴィス・プレスリー
1950年代のアメリカでチャック・ベリーやリトル・リチャードと言った黒人のミュージシャンたちによってロックン・ロールは生み出されました。当時の黒人たちのスラングで「バカ騒ぎ」や「ダンス」のような意味があったと言います。
新しい娯楽として全米に広まると、徐々に白人にも受け入れられるようになります。そんな中現れたのがエルヴィス・プレスリーでした。彼はアメリカやイギリスの若者たちを熱狂させ、スーパースターに上り詰め「史上最も成功したソロ・アーティスト」としてギネス記録に認定されています。
1960年代―ビートルズの登場とフォークロック
ビートルズ
1960年にイギリスで誕生したビートルズは、結成当初エルビス・プレスリーやチャック・ベリーの影響を受けてロックン・ロールを演奏していました。イギリスで人気を得ると1964年にアメリカへ渡り、世界的バンドに成長していきます。
ビートルズに続けとイギリスからローリング・ストーンズやザ・フーなどのバンドも、アメリカへ進出していきました。当時のこのような流れを「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼びます。
ジョーン・バエズとボブ・ディラン
イギリスから逆輸入されたロックン・ロールに影響を受けたのがアメリカのフォーク・ミュージックを演奏していた人々でした。フォークとロックン・ロールが融合しフォーク・ロックが生まれ、ボブ・ディランなどのアーティストを輩出しました。
1970年代―ハードロックとプログレッシブロック
ディープ・パープル
ギターなどに使うエフェクターやアンプなどの音響機器の進歩により、ブルース・ロックをより激しく大音量にしたハードロックが登場します。1970年代に入るとハードロックは全盛期を迎え、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどのバンドが活躍しました。
同じころ楽曲の構成の美しさや、アルバムの作品性を追求していたのがプログレッシブロックでした。またほかのジャンルとの融合もプログレッシブロックの特徴で、クラシック音楽や民族音楽、ジャズなどの要素を取り入れた楽曲も多く存在します。
1980年代―パンクロックの登場
パンクの聖地と呼ばれるニューヨークのライブハウス「CBGB」
1970年に全盛期を迎えていたハードロックやプログレッシブロックは商業的に巨大化し、演奏者たちは技術を駆使した難解な楽曲を演奏する様になって行きました。そんなロックに疑問を持っていた若者たちが演奏し始めたのがパンクロックです。
政府や体勢を皮肉った過激な歌詞や特徴的なファッションは、はけ口を探していた若者たちの心を掴みました。またパンクロックはシンプルで簡素な楽曲の多いので、「自分にも演奏出来るかも」と多くの人々に思わせ数々のバンドが生まれるきっかけにもなりました。
1990年代以降―ニルヴァーナやレッチリの大ヒットとブリットポップの流行
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
1970年代後半に水面下で誕生していたオルタナティブロックが、1990年代に入り人気を獲得し始めます。中でも1991年にデビューを果たしたニルヴァーナの影響は非常に大きく、オルタナティブロックの中でもグランジと呼ばれています。
2012年にロックの殿堂入りを果たしグラミー賞を3回受賞しているレッド・ホット・チリ・ペッパーズは、ロックとラップを融合させたスタイルで大成功を収めました。
オアシス
またイギリスではブラーやオアシスなどを中心に、イギリスらしいロックへの回帰を遂げブリットポップと呼ばれました。
日本のロック史
1960年代―ベンチャーズとグループサウンズ
ベンチャーズ
1962年に初来日したベンチャーズは日本にエレキギター・ブームを巻き起こしました。またベンチャーズは日本の歌謡界にも「京都慕情」や「雨の御堂筋」など数々の名曲の作曲家としても作品を残しています。
1966年にビートルズが行った唯一の日本公演以降、日本国内ではエレキギターを中心としたバンドが流行し「グループ・サウンズ」と呼ばれました。スパイダースやブルー・コメッツ、タイガースなど100を超えるグループがレコードデビューを果たしました。
1970年代―はっぴいえんどのデビュー
はっぴいえんど
日本のロックの先駆けと呼ばれた「はっぴいえんど」がデビューしたのは1970年のことです。当時のグループサウンズのように海外の楽曲を英語でカヴァーするのではなく、日本語で歌うロックを確立した伝説的なロックバンドです。
「はっぴいえんど」はメンバーである細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の4人全員が、現在に至るまで第一線で活躍し続けているモンスターバンドでもあります。
1980年代前半―BOØWYやRCサクセションが活躍
BOØWY
1980年代に入ると海外のロックに影響を受けつつも、日本独自のロックを演奏するバンドが増え始めます。ロックは大衆にも受け入れられ始め、チャートインする楽曲が現れたのもこの時期でした。
また1980年以降のロックは細分化していき、日本のロックシーンも広がりを見せ始めます。1970年代にイギリスで流行していたグラムロックに影響を受けたBOØWYやRCサクセションなどが活躍し、日本のパンクロックの代表的なバンドであるザ・ブルー・ハーツも1985年に結成されています
ロックバンドとは?
ロックを演奏するバンドがロックバンドであり、それ以上の明確な定義があるわけではありません。
ロックとは、1950年代にアメリカ合衆国の黒人音楽であるロックンロールやブルース、カントリーミュージックを起源とし、1960年代以降、特にイギリスやアメリカ合衆国で、幅広く多様な様式へと展開していった音楽ジャンルのひとつです。
ロックのサウンドは一般的には、エレクトリックギターとエレクトリックベース、ドラムとシンバルを組み合わせたドラムセットによって奏でられます。
ロックバンドは2人から5人のメンバーから構成されることが多いです。
その構成はバンドによって異なりますが、ボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードなどから1つを担当し、場合によっては2つ以上の楽器を兼任することもあります。
ロックは時代背景や社会情勢などによって姿形を変えながら、今なお進化を続けている音楽ジャンルです。
2.ロックバンドの種類のうち王道の5つを紹介
ロックバンドは特徴的な曲想や奏法などによって多くの種類に分類できます。
音楽ジャンルに明確な定義があるわけではないですが、ここでは王道の5つを紹介します。
王道の5つのバンド
ロキノン系
メタル系
ラウド系
シティポップ系
オルタナ系
順に紹介します。
以下の記事ではバンドが売れるために出場しなくてならないオーディションについて解説を行っています。
有名バンドオーディション5選! 3つのヒントを押さえて通過を目指そう
2020.11.30
(1)ロキノン系
ロック系音楽雑誌「ROCKIN’ON JAPAN」によく掲載されているバンドのことをロキノン系と言います。
また、ロッキング・オン・ジャパンが企画し、毎年8月に茨城・国営ひたち海浜公園で開催される日本最大の野外フェス「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」に出演するバンドという意味で使われることもあります。
さらに、それらとは無縁のバンドでも「ROCKIN’ON JAPAN」に掲載されて”いそう”であればロキノン系と呼ぶこともあります。
ロキノン系という言葉はいつ生まれたのかは明確ではありませんが、有力な説は「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」が開催されるようになった2000年前後だと言われています。
当時ヴィジュアル系バンドが台頭していましたが、ROCKIN’ON JAPANに掲載されないヴィジュアル系と区別するために、ロキノン系と言う言葉ができたと考えられています。
ロキノン系のバンドの特徴は、テレビなどのメディア露出が少なく、コアな音楽ファンが好んで聴くという傾向にあります。
#1:ロキノン系の有名バンドを紹介
ロキノン系の有名バンドには、KANA-BOONがいます。
KANA-BOONは、2006年に大阪府堺市で結成されたロックバンドです。
谷口鮪(Vo・G)、古賀隼斗(G・Cho)、小泉貴裕(Dr)の3ピースバンドで、2012年に「キューン20イヤーズオーディション」にて優勝し2013年にメジャーデビューしました。
KANA-BOONのシングル曲はどれもキャッチーで、1度聴いただけでぐっと惹き込まれる魅力があります。
ロキノン系の有名バンドにはそのほか、BUMP OF CHICKEN、OKAMOTO’S、いきものがかり、ゲスの極み乙女。、ONE OK ROCKらがいます。
(2)メタル系
メタル系は、1960年代の終わりから1970年代の初頭にかけてイギリスやアメリカ合衆国などで広く発展したロックのスタイルのひとつです。
日本では1980年代に流行し、和製ヘヴィメタル、ジャパニーズ・メタル(ジャパメタ)と呼ばれることもあります。
メタル系ではギター、ドラム、ベース各パートのソロタイムが設けられることがあり、曲中にギター同士やギターとキーボードで競い合うようにソロを弾いたりとすることがしばしばあります。
また、メンバーがステージ中央と下手、上手に分かれヘッドバンギング(頭を上下に激しく降るパフォーマンス)しながら演奏をするのもメタルらしい演出のひとつです。
#1:メタル系の有名バンドを紹介
メタル系の有名バンドには、Lovebites(ラブバイツ)がいます。
2017にメジャーデビューをした日本のガールズバンドであり、その年のMetal Hammer誌「ベスト・ニュー・バンド」賞を受賞しました。
その後、2018年にはヨーロッパヘッドライナーツアー開催、Bloodstock Open Air、Wacken Open Air参戦など、デビューからわずか1年余りでワールドワイドな活動を展開しています。
活動歴が浅いにも関わらず多くの音楽好きから支持を受けているメタル系バンドです。
今や日本のメタル系バンドはヴィジュアル系、アイドル型など、他の国には無いタイプのバンドを産み出すユニークな市場として注目を集め、世界のヘヴィメタルシーンで独特な地位を確立しています。
メタル系の有名バンドにはそのほか、世界的に名が知られているBabymetal(ベビーメタル)、正統派メタルの雄であるAnthem(アンセム)らがいます。
(3)ラウド系
ラウド系とは、ヘヴィメタルの特徴を色濃く受け継いでいることから、ニューメタルとも呼ばれることもあります。
力強いバンドサウンドをシンプルに演奏するのが特徴で、ラウド系の魅力はサウンドのほかライブパフォーマンスにもあります。
ヘヴィメタルに近い音楽性を持っていることから、それらのライブでよく見かけるヘッドバンギングを筆頭に、バンドメンバーが縦横無尽に走り回ったり、楽器を激しく鳴らしてみたり高いパフォーマンス力で盛り上げるのが魅力です。
そして、曲の中盤に入る長いギターソロも聴きどころのひとつです。
比較的新しい音楽ジャンルのラウド系は、近年音楽シーンでも注目を集め、大きなファンダムを持つバンドも続々と登場しています。
#1:ラウド系の有名バンドを紹介
ラウド系の有名バンドには、マキシマム ザ ホルモンがいます。
マキシマム ザ ホルモンは1998年、東京都八王子市にて結成したロックバンドです。
メンバーは、マキシマムザ亮君(ボーカル、ギター)、ダイスケはん(ボーカル)、上ちゃん(ベース、コーラス)、ナヲ(ドラム、ボーカル)の4人です。
個性の強いメンバーがマキシマム ザ ホルモンの魅力のひとつで、ライブでは長年の活動を通して培った結束力とグルーブ感でパワフルな演奏を展開します。
ラウド系の有名バンドにはそのほか、日米両国籍を持つMasatoがいるcoldrain(コールドレイン)、ヘヴィメタルやハードコアに加えレゲェをミックスした独自のサウンドが魅力のSIMらがいます。
(4)シティポップ系
シティポップ系とは、70~80年代に流行したポップスの一形態です。
歌詞や曲、アレンジに都会的なニュアンスを含んでいる特徴から、シティポップと呼ばれるようになりました。
2010年代以降に再興しているシティポップでは、ジャズやロック、R&B、ヒップホップ、ラテン、クラブミュージックなど、さまざまなジャンルの要素を柔軟に取り込んでいます。
そして2016年頃から日本ではシティポップ系バンドが20代を中心に人気が急上昇しています。
#1: シティポップ系の有名バンドを紹介
シティポップ系の有名バンドには、SPiCYSOLがいます。
SPiCYSOLは抜群のセンスで独自の進化を遂げている、4人組の新世代ハイブリッド・バンドです。
彼らはR&Bベースにロックやポップスのテイストをうまく取り入れた「Surf Beat Rock」というスタイルを掲げています。
シティポップ系の有名バンドにはそのほか、シティポップ系の先駆者であるシュガー・ベイブ、極上のポップなメロディが魅力のnever young beach(ネバー・ヤング・ビーチ)らがいます。
(5)オルタナ系
オルタナ系とは1970年終わりから1980年代にかけてのアメリカにルーツを持ち、商業主義的な産業ロックや人気の音楽様式とは一線を画す、前衛的な音楽スタイルです。
オルタナの語源であるオルタナティブは、「代替の」という意味を持ち、オルタナ系ロックは「型にはまらないロック」「新しいロック」という意味として使われています。
また、上記のジャンルに当てはまらないジャンルをまとめてオルタナ系と呼ぶこともあります。
#1: オルタナ系の有名バンドを紹介
オルタナ系の有名バンドには、キュウソネコカミがいます。
キュウソネコカミは、日本の5人組ロックバンドで、2009年に関西学院大学の軽音楽部の同期を中心に結成されました。
これまでのロックバンドのイメージを覆すような独特な世界観、身の周りの事柄への愚痴や文句を込めた歌詞で人気を集めています。
2014年にメジャー移籍を果たしますが、その後も神戸、大阪のライブハウスを中心に活動しています。
オルタナ系の有名バンドにはそのほか、オルタナ系を日本で確立させた椎名林檎、ベテラン的存在のNUMBER GIRLやthe pillowsらがいます。
まとめ
ロックバンドの種類5つの特徴と、種類別に有名バンドも紹介しました。
どのジャンルにも多くの実力派バンドが存在します
1980年代後半―バンドブーム到来
ザ・ブルー・ハーツ
1980年代後半から1990年代前半にかけてバンドブームが起こり、日本中で数々のロックバンドが結成されました。1989年より放送されたバンドオーディション番組「三宅裕司のいかすバンド天国」通称「イカ天」の影響も大きく、アイドルや歌謡曲を押さえてヒットチャートを独占するようになります。
代表的なバンドとしてはザ・ブルー・ハーツ、ユニコーン、爆風スランプ、レベッカ、リンドバーグなどがありますが、他にも有名なバンドはまだまだあります。紹介しきれないほどのバンドがこの時期にデビューを果たしヒット曲を送り出しました。
1990年代―ビジュアル系ロックとメロコアの流行
X JAPAN
1990年代に入るとビジュアル系ロックバンドが現れ始めます。GLAYやL’Arc〜en〜Cielがデビューを果たし、若者を中心に人気を博しました。またX JAPANやLUNA SEAなどのカリスマ的なバンドも現れ、髪型やファッションの奇抜さが注目を集め社会現象にもなりました。
1991年結成のHi-STANDARDが1999年にリリースしたアルバム「MAKING THE ROAD」は国内外あわせて100万枚以上を売り上げ、日本にメロコアブームを巻き起こしました。
ロックの歴史に関するまとめ
いかがでしたか?
ロックの歴史を知ることによって、好きなバンドが活躍した時代背景や同じルーツを持つ他のバンドを知ったりすることが出来ます。きっと新しい音楽を知るきっかけにもなることでしょう。
ぜひご自身の好きなロックバンドの歴史を掘り下げてみてください!
今日の音楽シーンの中で非常に難しいものの一つが「ジャンル分け」ですよね。
特に「ロック」について、「Alternative Rock」、「Glam Rock」、「Psychedelic Rock」、「Hard Rock」など細かくジャンル分けするとおよそ100種類にもなります。
では、その定義、意味とは、いったいどのようなものなのでしょうか?
Rockの始まり
その始まりは、1940年代のアメリカが起源となるリズム&ブルース(R&B)やカントリーミュージックに影響された1950年代の音楽「ロッカビリー(Rock a billy)」にあるといわれています。
そして1960年代以降、ビートルズの登場によりエレキベース、ドラムを土台にエレキギターをのせて歌うといった形がごく一般的となり、その多様性は増していったといえます。
現在では必ずしもこの通りではなく、様々な楽器を取り入れる場合も多くあり、電子楽器を使用しているかどうかを基準とすると区別がつけやすいです。
日本での位置付けは?
日本は海外に比べ、よりあいまいな位置付けになります。
1990年代には大手プロダクションがマーケティングの戦略として「J-ROCK」の呼称を広めようとしましたが、90年代には「サザンオールスターズ」や「米米CLUB」のような、海外の「Rock」をイメージするようなサウンドではなく、どちらかと言うとポップスに近い音楽が大衆に好まれて聴かれていたために、「J-POP」という呼称のほうがより浸透しました。
90年代後半になり「L’Arc-en-Ciel」や「GLAY」などのアーティストが活躍するようになり、あまり浸透しなかった「J-ROCK」という呼称が浸透し始めたと言えるでしょう。
Rockには派生がたくさん
前にも挙げたように、ロックには多くの派生が存在しており、その一部を紹介します。
ミクスチャー・ロック
この言葉は和製英語であり、日本でしか通用しません。
とくに「ラップ・レゲエ・ヒップホップ」や「民族音楽」と「ロック」を混ぜ合わせた意味があります。
代表として「ASIAN KUNG-FU GERNERATION」、「HY」、「RADWIMPS」など多くのアーティストがあげられます。
Alternative Rock
Alternative(オルタナティブ)には「型にはまらない」といった意味があり、時代にとらわれずに、「売るため」の音楽ではなく、周りにとらわれない音楽を作るという意味があります。
1990年代以降はAlternative Rockが主流となり現在のミュージックシーンを盛り上げています。
代表として「U2」「メイデイ」などの洋楽アーティストがあげられます。
やっぱり気になる?「メタル」との違い
これまでの内容以外に、「メタルとの違いは何だろう?」といった疑問を持っている方も少なくないかもしれません。
結果を言ってしまえば、本質的には同じと言えます。しかし、メタルのほうがより激しさがあると言えます。
激しさという点でみると、「ロック」→「ハードロック」→「へヴィ・メタル」 といったような順序をつけることができます。
参考:http://eigaflex.com/110/s110_s11i.html
ロックには色んな意味がある
「ロック」という言葉には、単に音楽ジャンルとしてだけでなく、精神的な意味も込められています。たとえば、「強く堅い意志」、「思いを貫く」といった意味があります。
また、「驚かす」、「びっくりさせる」、「感動させる」、「衝撃を与える」といった意味もあります。
それらを総称して、「ロック魂」なんて言葉もありますよね。
単にジャンルのひとつとして捉えている人よりも、こういった裏にある意味に心打たれている人のほうが実は多いのかもしれません。
このようにロックという言葉は、一つではまとまらないほど広く生活に浸透しています。
これからのミュージックシーンにおいて、どのような音楽がつくられていくのか注目したいですね。
グラムロックの発祥
グラムロックは1970年代の初頭から後半にかけて、イギリスで大流行したロックの一種です。流行していた期間こそそんなに長くはないですが、80年代以降のミュージシャンに多大なる影響を与えました。
1967年結成の「T・レックス」や、同年デビューの「デヴィッド・ボウイ」などがグラムロックを代表するアーティストです。
60年代後半から始まったハードロックやプログレッシブロックはワイルドでエネルギーあふれるロックでした。それとは違う新たなロックの形を生み出したのがグラムロックです。
グラムロックは衣装やメイクのイメージが強く、音楽性はバンドやアーティストによってそれぞれ違いました。今までの男性的だったロック・ミュージックに、女性的・中性的なイメージと近未来のような衣装を取り入れて新たなリスナーを開拓していきました。
グラムロックの衣装とメイク
グラムロックの語源
グラムロックの名前の由来は、魅力的を意味する英単語「グラマラス」だと言われています。またアメリカではきらめき・輝きの意味の「グリッター」を使って、グリッターロックという名前で呼ばれています。
メイクをしたアーティストたちが、きらびやかで魅惑的な衣装を着てパフォーマンスする様がよく表された名前です。
グラムロックの代表的なアーティスト
T・レックス
T・レックス
1967年にイギリスで結成されたロックバンドです。ボーカル兼ギターのマーク・ボランを中心に活動していて、結成当時は「ティラノザウルス・レックス」と名乗っていました。
初期のころはフォークロックを演奏していましたが、1970年に「T・レックス」に改名してからはグラムロックを代表するバンドとなりました。アルバム「電気の武者」で全英チャート第1位を獲得すると、ヒットアルバムやシングルを数々発表していきます。
マーク・ボランはグラムロックの発展に大きな影響を与え、衰退に合わせたように自動車事故により29歳の若さでこの世を去ります。2020年にはロックの殿堂入りを果たし、名実ともに世界を代表するロックバンドになりました。
デヴィッド・ボウイ
デヴィッド・ボウイ
デヴィッド・ボウイはロンドン出身のアーティストです。1967年にデビューし、アルバム「デヴィッド・ボウイ」を発表します。
音楽好きの父や異父兄の影響でアメリカのポップスやロック、モダンジャズなどを聞いて育ちました。その音楽性がのちの多彩な音楽活動につながっていきます。
1972年にアルバム「ジギー・スターダスト」を発表すると、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を名乗り世界中を1年半かけてツアーを行いました。このアルバムは現在でもグラム・ロックの名盤のひとつに数えられています。
ミュージシャンとして1996年にロックの殿堂入りも果たし、グラミー賞も5回受賞しています。その一方で俳優としても活動し、数々の賞を受賞している多彩なアーティストです。
ロキシー・ミュージック
ロキシー・ミュージック
1971年に結成されたロックバンド。同年にファースト・アルバム「ロキシー・ミュージック」でデビューを飾りました。ボーカルのブライアン・フェリーやキーボードのブライアン・イーノが在籍したことで知られています。
ロキシーの人気はデビュー当時から高く、イギリスの音楽週刊誌「NME」のランキングで各部門の新人賞を受賞しました。続くセカンド・アルバム「フォー・ユア・プレジャー」でも全英チャート第4位を獲得し注目を集めました。
メンバーチェンジなどを繰り返しながら活動を続けていたロキシーですが、1976年に行ったツアーを最後に解散します。その後ブライアン・フェリーはソロ活動に専念し、1977年には来日公演も行いました。
1979年と2001年に再結成をしてワールドツアーを行い、2019年にはロックの殿堂入りを果たしました。
モット・ザ・フープル
モット・ザ・フープル
1968年に結成されたサイレンスというバンドを前身としたイギリスのロックバンドで、翌年にデビューしました。
モット・ザ・フープルはデビュー当時から過激なライブパフォーマンスで有名でした。観客とのけんかや機材の破壊などで、多くのコンサート会場から出入り禁止を受けていたようです。ライブでは話題を呼んでいましたが、商業的には中々売れず解散の危機に直面しました。
そんな時に力になったのが、以前からモット・ザ・フープルのファンだったデヴィッド・ボウイです。彼が楽曲の提供とプロデュースを申し出て出来上がったのが「すべての若き野郎ども」でした。全英3位・全米37位を記録し、バンド最大のヒット曲となりました。
モット・ザ・フープル解散後の1970年代後半に流行したパンクロックのミュージシャンにも、大きな影響を与えています。
日本のロックの分類
グループ・サウンズ
歌謡ロック
ヤンキー・ロックンロール
テクノポップ
日本のニュー・ウェイヴ
湘南サウンド
ヴィジュアル系- ヴィジュアル系アーティストの一覧
ビートロック
デジタルロック
ビーイング系
イカ天バンド
日本のサイケデリック・ロック
日本のグラム・ロック
日本のガレージ・ロック
日本のラテン・ロック
ジャパニーズ・メタル
カワイイメタル
日本のパンク・ロック
めんたいロック
リズム・アンド・ブルース
ニューミュージック
和風ロック
ミクスチャー・ロック
日本のスカコア
日本のメロコア
青春パンク
ロキノン系
下北系ギターロック
残響系
日本のシューゲイザー
四つ打ちダンスロック
マスロック
ラウド・ロック
演歌メタル
日本のフォーク・メタル
アニソンロック
グループ・サウンズ(またはグループ・サウンド、和製英語: group sounds)とは、エレクトリック・ギターやエレキ・ベースなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏および歌唱を行うグループ。欧米におけるベンチャーズやビートルズ、ローリング・ストーンズなどのロック・グループの影響を受けたとされ、1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にかけて日本で大流行した。略称GS。
歴史[編集]
一般的に「グループ・サウンズ」といえば1960年代後半、ジャズ喫茶、ゴーゴー喫茶を中心に活動したロック・グループなどを指している。グループ・サウンズに共通することは、多くのグループがリード・ヴォーカル+エレクトリック・ギター+エレクトリックベース+ドラムスといった編成をとっていた。例外的に、初期のザ・ハプニングス・フォーなどのギターのいないGS、初期シャープ・ホークスのような、ヴォーカリストの集団で、バックにプロのエレキバンドを従えたコーラスGSも存在していた。1965年5月、ビートルズなどイギリスのロックバンドの人気が日本にも広まる中で田辺昭知とザ・スパイダースの『フリフリ』を発売、この曲が最初のグループ・サウンズのレコードとされている[1]。1966年3月にはジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳」[2]を発表した。
この年、6月30日からのビートルズ来日公演以降、エレクトリックギター等の楽器を自ら演奏しながら歌うグループが日本で次々とデビューするようになる。このことを受け、若者向け芸能雑誌「週刊明星」がこれらのグループや音楽を総括して「グループ・サウンズ」または「グループ・サウンド」と呼び始めたことをきっかけに広まった呼称で、起源にはいくつかの説がある。1965年に寺内タケシが当時のブルージーンズのジャンルを記者から聞かれた際の「グループ・サウンドだ」「でもそれだと単数形だからグループ・サウンズのほうがいい」と言ったという説などがある[3]
ブルージーンズはベンチャーズの影響を受けていた。ブルー・ジーンズ、ブルー・コメッツやザ・スパイダースのように、ビートルズ来日公演以前からプロのバンドとして活動していたもの、ゴールデン・カップスやテンプターズのようにブルース・ロックを演奏していたバンド[4]、ザ・タイガースやザ・テンプターズのように「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」に影響を受けた学生が仲間内で結成したアマチュア出身のバンドもいた。このようにGSと言っても、各グループの音楽性には、かなりのばらつきがあった。
当時の音楽業界はまだまだ古い体制で、芸能プロや各レコード会社は職業作家であるプロの作曲家・作詞家に[5]GSの曲を依頼したがった。そのため、コンサート、リサイタルなどでは自分たちの好きな洋楽ロック等を中心に演奏していたテンプターズ、ゴールデン・カップスらは反発を感じていた。ゴールデン・カップスのように、ライブでは「長い髪の少女」のようなシングル曲は絶対に演奏しないというポリシーを貫いたグループもいた[6]。
GSブーム初期にはジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダースが人気グループとなり[7]、GSブームの中期から後期にはザ・タイガース、ザ・テンプターズ、オックスが人気になった[8]。
60年代当時の日本は、父権が強い封建的な面を持った社会であり、長髪やエレキギターといった要素は不良、若者の非行に結びつけられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。そのため、グループ・サウンズのコンサートを観に行った高校生には停学もしくは退学処分を下される学校もあった。また、コンサートに行くこと自体を禁止する中学校・高校が続出した。
1967年11月に行われたザ・タイガースの奈良あやめ池での野外コンサートで、ファンの転倒事故が発生、重軽傷者を出した[9]。そのためNHKは、『歌のグランド・ショー』で既に収録済みだったザ・タイガースの出演部分をカットし、以後、短髪だったジャッキー吉川とブルー・コメッツを例外に、長髪系のグループ・サウンズの出入りを禁止した[9][10]。また1968年5月にはザ・タイガースの女子高生ファンによるコンサート入場券偽造事件も起きた。
オックスがステージ上で行った失神パフォーマンスにより実際に失神する少女達が続出し、これを契機にPTAや教育関係者の反感を買うこととなった。そして事故防止のためグループ・サウンズのバンドにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体があらわれた[11]。「レコード・コレクターズ」の特集では、メンバーによる自作自演を志向したGSグループに対し、プロの歌謡曲作家を起用させたいレコード会社が、なかにし礼や村井邦彦、筒美京平、鈴木邦彦らの作詞家、作曲家を雇った[12]ため、洋楽ロックのカバーなどをやりたくてもやれなかったという状況が採り上げられている。
1960年代にはピンキー・チックス、松田智加子とTokyo Pink Pearls(東京ピンク・パールズ)など、いくつかのプロの女性GS(事務所に所属)が存在した。レコードを出したのはピンキー・チックスのみである。女性GSメンバーの中には、70年代にディスコのレコードを出せた歌手もいた。後にサーフ・ロック風のゴールデンハーフもデビューしている。彼女らの「太陽の彼方」はアストロノーツ[13]のカバーだった。エミー・ジャクソンは早すぎた一人GSだったが、GS全盛期には中村晃子、黛ジュン、青山ミチ、小山ルミ、泉アキらの「一人GS」もデビューした[14]。中村晃子の「虹色の湖」、黛ジュンの「天使の誘惑」「恋のハレルヤ」などは、大ヒットになった。黛ジュンの「土曜の夜、何かが起きる」は女性版GSの代表曲である。また、男性版一人GSの荒木一郎はヒット曲のほかに、「僕は君と一緒にロックランドにいるのだ」の意欲作を出した。GSブーム終焉から20年ほどたった90年代に注目されるようになったのが、カルトGSである。ザ・ジェノバの「サハリンの灯は消えず」、ザ・ボルテージの「イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド」[15]などはカルトGSの作品としてあげられる。
1968年夏頃にはGSブームはピークを迎え、100を超えるグループがレコードデビューを果たすも[16]1969年春にはザ・タイガース、ザ・カーナビーツ、オックスなどの人気グループから主要メンバーが相次いで脱退し、またジャッキー吉川とブルー・コメッツは、ムード歌謡路線の曲まで録音した。70年頃には完全にGSブームは終焉を迎え、1971年に入るとほとんどのグループが解散・自然消滅をした[17]。
その後人気グループ・サウンズに於いてリード・ヴォーカルを務めていた人物の中からは、グループ解散後も歌手やミュージシャン、俳優、またタレントとして芸能界の第一線で活躍し続けている人物も多い。また他の楽器パートを務めていた人物にも、俳優、作曲家、スタジオミュージシャン、音楽プロデューサー、芸能事務所経営者等として、芸能界の重要人物へと納まっている者が何人か存在する。
また1988年から1990年にかけて、タイガース・メモリアル・クラブ・バンドと称したユニットが結成され、当時のヒット曲を次々と披露した。さらに、沢田研二の物真似をやっていた岩本恭生が彼らに感動し、ザ・タイガースのメンバーの内、加橋かつみ、森本太郎、岸部シローとザ・タイガースマニアというバンドを1993年に結成し、「涙のロマンス」をリリースした
一方ザ・ワイルドワンズも、1981年に再結成し、21世紀も活動中である。またジャッキー吉川とブルー・コメッツは解散せず(いわゆるGSとしてのブルー・コメッツは1972年秋に解散=再編成という形を採った)にメンバーチェンジを繰り返しながら活動を続け、井上忠夫の逝去後は全盛期の残りの4人という編成に戻している。なおザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズは共にGS全盛期、渡辺プロ所属であった。
2002年にはヴィレッジ・シンガーズの『亜麻色の髪の乙女』が島谷ひとみによってカバーされ(詳細はこちらの項目を参照)てスマッシュ・ヒットとなった。
GSはブームが去った後、いわゆる『懐メロ』として長らく扱われた。だが、1980年代半ばからのGS研究家、黒沢進による研究や近田春夫による再検証がおこなわれ、一部から注目されるようになった。モップスは、海外でも『サイケデリック・ロック』や『ガレージロック』、として評価されている[18]。日本ではレーベル別の再編集アルバムや、ジャンル別のアルバム、発売当時そのままの紙ジャケット仕様によるCD再発などのリリースが相次いだ。
1980年代半ばに登場したC-C-Bは筒美京平が曲を提供していた[19]。時をほぼ同じくして、GSファンの若い世代が東京のライブハウスを中心にGS風の曲を演奏する現象が見られた。当時の代表的なバンドは ザ・ファントムギフト、ザ・コレクターズ等が挙げられる。このムーブメントは一部のメディアに取り上げられたが、小さな現象であった。その後もデキシード・ザ・エモンズ等がGSを継承した。
そして21世紀以降もキノコホテル、ザ・キャプテンズ、ザ・シャロウズなどのGS風ロックバンドやGSフォロワーが生まれている。2010年以降は、元ジャッキー吉川とブルー・コメッツの三原綱木がプロデュースするザ・ジュリアンズなどのバンドが誕生している。
970年代(パンクムーヴメント以前)[編集]
日本でのパンク・ロックの歴史は、1970年代後半、イギリスのストラングラーズやセックス・ピストルズの成功を始めとして起こったパンク・ムーヴメントに影響されて始まった部分が大きいが、それ以前にも音楽性はパンク・ロックとは呼べないものの、攻撃的なメッセージ性を含んだ歌詞やパフォーマンスなどで後に日本におけるパンク・ロック・バンドの原点とも評されるバンドも存在した。
1969年に結成され、ブルースロックを基調としながらも、差別用語を(自虐的に[1])多用した歌詞や客との喧嘩が絶えないライブ・パフォーマンスを行っていた村八分、1970年に結成され、政治的に過激なメッセージを歌い、ファースト・アルバムが発売中止となった頭脳警察、1973年にデビュー、暴走族に絶大な人気を誇り、ライブでのトラブルが絶えなかった外道などがこれにあたる。
これらのバンドはその当時にはパンク・ロックという言葉が存在しておらず、特にカテゴリーとして括られる事は無かったため、後にその存在がクローズ・アップされるまではパンク・ロック・バンドとしては全く認知されていなかった。
1970年代(パンクムーヴメント以後)[編集]
その後、1970年代も後半に入ると、ロンドンやニューヨークでのパンク・ムーヴメントの勃興に伴い、日本においてもその影響を受けたロックバンドが次々に誕生する。
東京では、1970年代前半から紅蜥蜴として活動をしていたLIZARD、ニューヨークへ渡りコントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークスに参加しノー・ウェイヴ・ムーブメントを直に体験したレックとチコヒゲらによるフリクション、後に日本のインディーズ・レーベルの始祖とも言える「ゴジラ・レコード」を発足させるヒゴヒロシによるミラーズ、ミスター・カイト、S-KENが、「東京ロッカーズ」と称したシリーズ・ライブを開始しオムニバス・アルバムをリリース。
8 1/2、フールズの前身のSEXらは、オムニバス・アルバム『東京NEW WAVE'79』をリリース。名古屋では、髪を逆立てたヘアースタイルや鋲ジャンといったパンク・ロックのイメージを早くから体現していたTHE STAR CLUBなどが登場。
そして関西でも、現在は作家として活動している町田町蔵(現・町田康)率いるINU、Phewらが在籍していたアーント・サリー、ハードコア・パンクの先駆けともいうべき高速な演奏スタイルのSS、JOJO広重が在籍したULTRA BIDEが「関西NO WAVE」と称したライブを開催。
福岡では、ビートを強調したパンク・バンドが数多く、めんたいロックと呼ばれている。1970年代にYMOとの邂逅から生まれたニュー・ウェイヴとロックンロールの融合としてデビューを飾り、初来日したラモーンズと共演して以降、親交を深めたことで知られるシーナ&ザ・ロケッツ、1980年代に入ってTHE ROOSTERS、現在は役者として知られる陣内孝則がボーカルを務めていたザ・ロッカーズ、THE MODSなどが続々と登場。
また、灰野敬二、工藤冬里などノイズ系のロック、フリー・ジャズ、即興演奏などのアーティストが活躍していたライブハウス「吉祥寺マイナー」からは、後にタコを結成する山崎春美らのガセネタ、初期には額をカミソリで切り流血、放尿、生きたままのニワトリやシマヘビを食いちぎるなどの過激なライブ・パフォーマンスを展開していたじゃがたらなども登場した。
シーナ&ザ・ロケッツ以外のニュー・ウェイヴ・バンドにもパンクの影響を受けたグループは少なからず存在していた。平沢進が率いる後期のマンドレイクや後身のP-MODEL、8 1/2の泉水敏郎も所属していたヒカシュー、プラスチックスなどといった、テクノポップバンドと俗称されたバンドや、ガールズバンドのパイオニアであったZELDAなど、多くのバンドがパンク色の強いスタイルをとっており、また他のパンク・ロック・バンドとの交流も多かった。
しかし、これらのバンドの出現は、まだまだムーヴメントと呼べる規模には至らず、短期間で解散してしまうバンドや、スタイルが変化したバンドも多かったため、一般には中々浸透するには至らなかった。そして、東京ロッカーズのバンドなどはパンク以前にも音楽活動経験がある20代後半の大人によるパンクロックが主力であった。SSやTHE STAR CLUBなど10代のバンドもあったが、若者の初期衝動による攻撃的なパンク・ロックがムーヴメントとなっていくのは、1980年代以降の多くのハードコア・パンク・バンドの出現を待つことになる。
1980年代前半[編集]
そのような状況の中、1978年に結成され、ヤマハ主催のコンテスト「EAST WEST」にて優秀バンド賞を獲得したアナーキーが、1980年にビクターよりデビューする。ファースト・アルバムに収録されていた曲が、皇室を揶揄する歌詞だったため、レコード会社が政治団体から抗議を受け一旦回収となるなど話題を呼び、10万枚以上を売り上げ、日本に「パンク・ロック」という言葉、そしてパンクの反体制的なイメージを浸透させた。しかし一方では、イギリスのザ・クラッシュの楽曲に日本語詞を乗せて歌うなど、「物まねパンク」と批判する意見もあった。
そして、1980年に結成され、観客に豚の臓物や汚物、爆竹などを投げ込み、全裸になってオナニーをするなど過激なパフォーマンスで脚光を浴びた遠藤ミチロウ率いるザ・スターリンが登場。徐々にその常軌を逸したパフォーマンスは週刊誌などにも掲載され、世間一般にもパンクという言葉を浸透させていく事となった。しかし、知名度が上がるに連れ、一般の若者達には「パンクとは汚物を撒き散らしたり、全裸になったりして歌う事だ」と大きな誤解を招く結果ともなってしまい、他のパンク・ロックバンドからは異端の存在として白い目で見られていた部分もある。
アナーキーやザ・スターリンのようなメジャーのレコード会社から作品を発表するバンドもいる一方で、多くのパンクバンドは、この頃、全国で多数出現したインディーズ・レーベルから自主制作でソノシート、レコードを発表していた。しかし、インディーズのレコードの流通はまだ整備されておらず、一部のインディーズ専門のレコード店でのみ販売され、多くのファンはパンク雑誌「DOLL」や口コミなどで情報を得ていた。
インディーズでは、イギリスのディスチャージ、GBHなどから影響を受けたハードコア・パンク・バンドが多数登場。東京で「ハードコア四天王」と呼ばれたG.I.S.M.、GAUZE、THE COMES、THE EXECUTEや、関西ハードコアではLAUGHIN' NOSE、MOBS、ZOUOなど、その他、MASAMI率いるGHOUL、「ADKサウンド」と言われた日本ならではのドロドロとした日本語のパンクロックを展開した奇形児、MASTURBATION、あぶらだこなどが初期のシーンをリードした
また、パンクの中にゴシック・ロック的退廃を取り入れたポジティヴ・パンクもハードコアと連動する形で盛り上がり、AUTO-MOD、マダムエドワルダ、SADIE SADS、アレルギーなども登場。
このように、1980年代前半に急激に増えたパンク・バンドだが、the 原爆オナニーズ(名古屋)、SA(岐阜)、コンチネンタル・キッズ(京都)、GAS(広島)、白(KURO)(福岡)、CONFUSE(福岡)、スワンキーズ(福岡)など地元を拠点に活動し高い人気を誇ったパンク・バンドも多く、全国各地で独自のパンク・シーンが築かれていた。
1980年代後半[編集]
1980年代半ばになると、雑誌「宝島」を中心にインディーズ・ブームが起こり、NHKで特別番組「インディーズの襲来」としてパンク・シーンが紹介されるほどの社会現象となった。その中でも、ハードコア・シーンから登場しポップセンスを取り込んだLAUGHIN' NOSE、THE WILLARD、有頂天は「インディーズ御三家」と言われ高い人気を誇った。
前述のテクノポップやニュー・ウェイヴだけでなく、インディーズ・ブームで脚光を浴びた有頂天、筋肉少女帯、ばちかぶりなどのナゴムレコード、前述のポジティヴ・パンクとともにヴィジュアル系の源流の1つとも言えるYBO2、Z.O.A、ASYLUM、SODOMなどのトランスレコード、また非常階段、ハナタラシ、ザ・ゲロゲリゲゲゲのようなノイズなど、当時のアンダーグラウンド、インディーズ・シーンで活躍するバンドの多くは、パンク・ロックの影響下にあり、実際パンクバンドとの対バンが多く、広義ではパンクと目される場合もあった。
そして、暴力的な嗜好にあふれていたパンクシーンにおいても、パンク・ロックの持つ攻撃的な音楽性を持ちながらも、ポップなメロディを持ち合わせた楽曲を演奏するCOBRA、KENZI & THE TRIPS、THE POGO、ニューロティカ、JUN SKY WALKER(S)、The ピーズといったバンドも現れ始める。
特にその中でも、1987年にメジャーデビューしたTHE BLUE HEARTSは、パンク・ロックを基調としながらも、青春的メッセージ性のあるシンプルでストレートな歌詞によって、若者を中心に圧倒的支持を集め、それは一般においても知名度を獲得することとなった。その後、日本の音楽シーンにおいても空前のバンドブームが訪れ、様々なロックバンドが台頭するようになる。日本においては彼らの活動がスタイルもしくはファッションとしての“パンク”を日本中に知らしめた事となった。
また、パンクとソウル・ミュージック、サイケデリック・ロックを融合させたニューエスト・モデル、メスカリン・ドライヴは、そのアティチュードの面において現在のソウル・フラワー・ユニオンに繋がる活動を展開した。
一方、ハードコア・パンク・シーンでは、1980年代半ば以降、USハードコアからの影響も強くなっていった。その中でも代表的なLip Cream、後にナパーム・デスなど海外のバンドにも影響を与えグラインドコアのジャンル形成にも大きく寄与したS.O.B、日本のスケート・コアの先駆けでスラッシュ・メタルとクロスオーバーしたROSE ROSE、ヘヴィメタルとクロスオーバーしG.I.S.M.とともにメタルコアの先駆けとなったGASTUNKなど音楽性も多彩なバンドが人気を誇り、1990年代以降のハードコア・パンク・シーンへとつながっていった。
ヘヴィメタルとの音楽的なクロスオーバー化が進む一方、一部では「メタル狩り」と呼ばれるヘヴィメタルに強い嫌悪感を持つパンクスによる暴力行為が多発したのもこの頃であった。ライブハウス「目黒鹿鳴館」の関係者によると、1980年代後半当時、パンクスとメタルファンが居酒屋やライブハウスでバッティングすれば喧嘩は当たり前であったという。その中でもメタル側の相手がX、DEAD END、UNITEDの様にハードコアバンドとの繋がりが深いバンドの知り合いと判明した場合、丸く収まることもあったと述懐している[2][3][4]
1990年代[編集]
1990年代になると、さらに様々なジャンルとのミクスチャーが進み、その先駆とも言えるNUKEY PIKESが登場。パンク・ロックが細分化されていった。中でもメロディック・ハードコアやスカコアなどが高い人気を誇り、メロコアではHi-STANDARD、BRAHMAN、HUSKING BEEなど、スカコアではPOTSHOT、Kemuri、SNAIL RAMPなど、チャートの上位に入るパンク・バンドが続々と登場する。この頃に台頭したバンドはHi-STANDARDが企画したロック・フェスティバルから「AIR JAM世代」と呼ばれる。市場では同時期に勃興したミクスチャー・ロックと合わせて「ラウド・ロック」、あるいは「ラウド/パンク」というカテゴリーで現在も扱われる事が多い。日本のエモーショナル・ハードコアの先駆けとなったeastern youthやbloodthirsty butchersなどもこの頃台頭している。また、ストラグル・フォー・プライドなどのようなクラブカルチャーと連動するようなハードコア・パンクバンドも登場し始めた。 さらに社会を過激に風刺したメッセージ性の強い歌詞によるストリートパンクの音楽性に転向した黒夢が、1997年から1998年にかけておよそ230本という記録的な数のライブを行い、アルバム『CORKSCREW』は48万枚以上売り上げた。
2000年代以降[編集]
21世紀に入るとGOING STEADY、MONGOL800、B-DASH、ガガガSP、ロードオブメジャー、175R、FLOWらの登場で青春パンクブームが到来し、中高生を中心に支持を集めた。中でもMONGOL800が2001年にリリースしたアルバム『MESSAGE』は、発売から7か月後のオリコンアルバムチャートで、1位を記録するなどのロングセラーとなり、インディーズ・アーティストとして史上初のミリオンセラーの記録となった。また、ロック・フェスティバルが次々と開催されるようになり、ラウド/パンク・ロックもそのシーンに組み込まれるようになったことで、ELLEGARDEN、10-FEET、マキシマムザホルモンなどのバンドが台頭した。2008年には10-FEETが企画したロックフェス「京都大作戦」が初開催され、前述のバンドの他、TOTALFAT、SiM、HEY-SMITHなどが出演。現在のラウド/パンク・シーンの象徴のひとつとなっている。
1960年代[編集]
ザ・ゴールデン・カップス、ザ・モップス、内田裕也とザ・フラワーズ、パワーハウスなど一部の洋楽志向のグループ・サウンズ・バンドがジミ・ヘンドリックス、クリーム、アニマルズ等の曲をカヴァーしていた。グループ・サウンズのブームも終わりかけた頃(1960年代末)、日本ではニューロックを手掛けるバンドが急増した[要出典]。
1970年代[編集]
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出典検索?: "ジャパニーズ・メタル" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月)
内田裕也のプロデュースによってフラワー・トラベリン・バンドが1970年に結成。ブラック・サバスやキング・クリムゾン等のコピー曲が大半だった1stアルバム『ANYWHERE』(1970年)ののち、バンドは米アトランティック・レーベルと契約を結び、オリエンタリズム溢れるハード・ロックの2nd『SATORI』(1971年)等を発表、日本のハードロック/ヘヴィメタル系バンドで初めて海外でもライブ・ツアーを行っている[1]ミッキーカーチス&サムライは1960年代後期にヨーロッパで活動[2]を行なっているが、このバンドの音楽性はサイケデリック・ロックであって、ハード・ロックではない。しかしながら、海外レーベルの契約とともに活動拠点をカナダに移したことによって日本国内での活動の空白期を作ったことや、そもそもが外来語である英語の歌詞にこだわった彼らに対して、当時の日本が演歌、歌謡曲、フォークソングなど日本語歌詞で情緒に訴えかける音楽が全盛だったことなど、複数の要素が絡み合い、1973年の帰国後間もなくして解散してしまう。
フラワー・トラベリン・バンド(2008年、再結成後のニューヨーク公演より)
1970年、ザ・ハプニングス・フォーのクニ河内、内田裕也率いるザ・フラワーズからフラワー・トラベリン・バンドに移行する前の石間秀樹、ジョー山中らは『クニ河内とかれのともだち』名義で、すべて日本語で構成されたアルバム「切狂言」を録音している(発売は、フラワートラベリンバンドのファーストアルバムの発売より後)。
同年、元ザ・フィンガーズの成毛滋はヴァニラ・クリームを経て、ジプシー・アイズを結成。1971年にはつのだひろや柳ジョージらと共にストロベリー・パス名義で、ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリン、ELP等からの影響が色濃く出たハードロック/プログレ・アルバムを発表。その後、柳に代わり高中正義をベーシストに迎え入れたストロベリー・パスはフライド・エッグへと発展する。成毛は海外でロック・コンサートを観覧した折にロック・サウンドを大音量で鳴らすことの出来るPAシステムの存在を知り、PAシステムを日本国内に持ち込んだ第一人者とされている。
タレントとして活躍する鈴木ヒロミツや井上陽水の初期~中期キャリアの音楽パートナーである星勝らが在籍し、1960年代にグループ・サウンズ・バンドとして活躍したザ・モップスは、1970年代の幕開けとともにレッド・ツェッペリン風のハードロック・バンドへと移行。1971年に発表されたアルバム『御意見無用』に収録された「御意見無用(いいじゃないか)」では、ブリティッシュ・ハード・ロックと阿波踊りのリズムを掛けあわせた和のハードロックを鳴らした。
ヘヴィメタルという観点でいえば、竹田和夫率いるブルース・クリエイションが、「原爆落し」「悪魔と11人の子供達」という曲を1970年にはすでにステージで演奏しており、現在では主に海外においてヘヴィメタルのプロトタイプの1つとして認知されている。1971年には2ndアルバム『悪魔と11人の子供達』と、カルメン・マキとのコラボ・アルバム『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』を発表するが、このアルバムは当時知名度のあったカルメン・マキのおかげもあって好セールスを記録。その後、ブルース・クリエイションは解散するが、のちにメンバーを一部刷新したクリエイションとして再編され、ブルース・ハード・ロック・バンドとしての道を歩むこととなる。クリームのプロデューサーやマウンテンのメンバーであったフェリックス・パッパラルディにその実力が認められたことで、1976年には日・東芝EMI/米・A&Mからマウンテン直系のハード・ロック作『CREATION WITH FELIX PAPPALARDI』がリリースされ、全米20か所にも及ぶライヴ・ツアーへと繋がった。フェリックスとバンドはこの時期に日本武道館公演も敢行している。
1970年代初期の日本ではハード・ロックが人気がなかったがゆえ、日本のハード・ロック・バンドは不遇な活動を強いられたとする説[要出典]があるが、当時の海外のハード・ロック・バンドの日本での認知度を考えた時、ディープ・パープルの日本公演録音盤『MADE IN JAPAN』(1972年)や、1971年にレッド・ツェッペリンが、1973年にマウンテンが日本武道館公演を行なっている事実等を総合的に判断すると、1970年代の日本国内ではハード・ロックという音楽そのものが不人気だったわけではないことは明らかであり、単に日本のハードロックバンドの一般的な人気が無かっただけの話である。事実、1981年にデビューしたLOUDNESSがデビューコンサートのチケットが完売するまで、当時の音楽業界での認識は「日本のハードロックは売れない」とまで言われていた程であった[3]。
1973年に結成、1977年にデビューしたLAZY(バンド名は、ディープ・パープルの同名曲に由来する)は、当初、事務所の営業方針でアイドル・バンドとして活動をさせられていたが、コンサート会場では海外のバンドのカヴァー(UFO、TOTOなど)を演奏し、特に高崎晃のギター・プレイについては、当時現役高校生で、しかもアイドルという立場であったにもかかわらず、この時既にコアなロックファンや同業者に注目を集め、子供バンドのうじきつよしは金沢のイベントで過去にLAZYと共演した際にLAZYの演奏技術と音量の大きさに驚き、「実際に見たら嫌になっちゃうくらい音がでかくてね。「高崎は凄いぞ、ヤツは敵だ!」と思った(笑)」とライバル意識を持っていた過去を明かした[4]。後にBURRN!副編集長~ミュージック・ライフ編集長を務めた音楽ライターの増田勇一も学生時代に高崎の演奏技術に衝撃を受けたうちの一人で、当時LAZYが出演したNHKの歌番組『レッツゴーヤング』でマイケル・シェンカー・グループの「Armed and Ready」のカヴァーを演奏した姿を見て衝撃を受けたと述懐している[5]。
この時代の他のハードロック・バンドに関しても言及すると、1970年代初期にはブルース・ヘヴィ・ロックのスピード・グルー&シンキやトゥー・マッチ、プログレ・ハード・ロックのコスモス・ファクトリー、暴走族の支持者が多かったハード・ロックンロールの外道等がいる。中期に入ると、カルメン・マキ&OZ、現在も現役で活動しているBOW WOW、沖縄版ディープ・パープルと言わしめた紫、そして紫と同じく沖縄のバンドでニワトリの首を切るなど残虐なパフォーマンスを行ったコンディション・グリーンらがデビューを飾り、日本のハード・ロック・シーンが少しずつ盛り上がっていく。
1970年代が終わりに近づくにつれ、ハード・ロック・ミュージシャンの多くは、ジャズ・フュージョン系のサウンドに流れていった(高中正義や、竹田和夫等)。他にも、歌謡ロックやレゲエのジョー山中、ニューミュージック系のアレンジャーとなった星勝、ブルースマンの柳ジョージ、トランザムを経て萩原健一のバックを務めた石間秀機、ハード・ロックのルーツの1つであるニュー・ロック(サイケ・ロック)を志向していたエイプリル・フールのメンバーだったが、その後アメリカン・ロック風のはっぴいえんどを経てテクノ・ポップ・バンドYMOに関わった細野晴臣など、1970年代の多くのハード・ロッカーが転向を見せた。
1980年代前期[編集]
1980年代を代表する日本のヘヴィメタルバンドLOUDNESS(2010年、ドイツ公演より)
80年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える[6]。Sighの川嶋未来は、「80年代当時、ヘヴィメタルは確実にメインストリームに属する音楽であった。クラスメイトにもヘヴィメタル好きは複数いた」と当時を振り返っている[6]。
1980年、英国でのアイアン・メイデンらを筆頭とするNWOBHMムーヴメントに感化されるようにして、アイドルグループとして活動していたLAZYが「ヘヴィ・メタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。しかし、そのLAZYは音楽的方向性を巡り所属事務所やメンバー間の意見の相違が表面化し1981年5月31日に解散となる。これを機に、高崎と樋口宗孝が本格的なヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」を結成し、1981年11月にアルバム「誕生前夜」でデビュー、12月17日には浅草国際劇場でデビューコンサートを開く[7]。
LAZY同様、営業面の問題から歌謡曲路線を取らされていたBOW WOWが本来のヘヴィメタルバンドに戻ることを宣言し、1982年 - 1983年には海外のロック・フェスティバル(レディング・フェスティバル)に日本人アーティストとして初めて参加した[8][9][10]。この他では、のちに俳優として活躍するうじきつよし率いる子供ばんども活発なライブ活動をし、各地のイベントの常連となっていた。
「ヘヴィメタル」の項目でも触れているが、この頃から音楽雑誌の「YOUNG GUITAR」と「ロッキンf」が日本のヘヴィメタルバンドの為にフェスティバル等を開いたりと積極的にヘヴィメタルシーンを盛り上げていた[11]。
1983年から翌1984年にかけて、関西ではEARTHSHAKER、44MAGNUM、MARINO、RAJAS、X-RAY、MAKE-UP、東京からもBLIZARD、AROUGEなどのヘヴィメタルバンドが次々とデビューを果たす。また、この頃はビーイングがアイドル的な女性メタルシンガーを次々と売り出しており[12]、樋口宗孝のプロデュースで浜田麻里が、高崎晃のプロデュースで本城未沙子がデビュー[13]。それに続いて早川めぐみ、橋本ミユキ(アニメソング歌手の橋本みゆきとは同姓同名の別人)等のイニシャルが「H.M.」(つまりHeavy Metal)の女性シンガーが次々とデビューを飾るが[注釈 1]、長期にわたって継続的に活動したのは浜田だけであった。
1980年代中期 -第2世代の登場・海外進出-[編集]
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出典検索?: "ジャパニーズ・メタル" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月)
1984年5月27日には「GRAND METAL」が大阪城野外音楽堂で開催され、当時活躍が期待されていた若手バンドが出演した[注釈 2][14]。
LOUDNESSは1983年にはアメリカ、1984年にはヨーロッパを中心にライブ活動を行い、夏には海外へのアピールとしての「DISILLUSION English Version」、ヨーロッパ公演を収めたライブビデオ「EUROBOUNDS」をリリース。翌年、1985年には米アトランティック傘下のアトコ・レーベルと契約し、同年11月9日、「THUNDER IN THE EAST」で世界デビューを果たすが、このアルバムよりプロデューサーとなったマックス・ノーマンの指示により、当時米国で勢いづいていたモトリー・クルーやクワイエット・ライオット等に代表されるLAメタルを意識したサウンドに変化している[15]。また、海外でのアルバムリリース前にはモトリー・クルーの前座としてツアーに動向。8月14日には前座という形ではあるが、日本人ロックバンドで初めてマディソン・スクエア・ガーデンの舞台に立っている[16]。これに続いて、BOW WOWがメンバーチェンジを機にバンド名をVOW WOWに改め、LOUDNESSと同様に海外での活動を展開してゆく。
東京で結成されたANTHEMは当初はNWOBHMの影響を単純に受けたバンドであったが、福田洋也加入後にACCEPTやMANOWARに代表されるパワーメタル的な音楽的要素を取り入れて先鋭化し[17]、SABBRABELLSはBlack SabbathやAlice Cooperを彷彿とさせるシアトリカルかつ悪魔崇拝的なステージングとヘヴィなサウンドで、北海道から登場したFLATBACKERはヴェノムと日本のハードコア・パンクを混ぜたような過激なサウンドと放送コードギリギリの過激な歌詞で日本のヘヴィメタルシーンを盛り上げていった[18]。1984年にはインディーズながらANTHEMやSABBRABELLSを始めとした関東のバンド、SNIPERといった名古屋のバンドが集まり、オムニバスアルバム「HEAVY METAL FORCE Vol.1」を木箱入りでリリースしたりと積極的なアピールを展開する。その後、ANTHEMとFLATBACKERは1985年に、SABBLABELLSは1986年にメジャーデビューを果たす。
1985年8月にシングル「素敵にダンシング」でデビューしたSHOW-YAは、メンバー全員が女性という当時としては異例のバンドであった。初期は秋元康が楽曲を手掛けているなどいわゆる“歌謡メタル”的なテイストを多分に含んでいたが、徐々にサウンドのハードさが増していき、1989年に昭和シェル石油のCMタイアップ曲となった「限界LOVERS」が大ヒットし日本のヘヴィメタル界に新風を巻き起こす。また、SHOW-YAは1987年から年に1回の割合で女性ロッカーだけを集めたロックイベント「NAONのYAON」を開催し、女性ロッカーの地位向上に大きく貢献する。
聖飢魔II(2010年)
聖飢魔IIがメジャーシーンに登場したのもこの1985年のことである。元々は早稲田大学のフォークソングクラブに発祥の由来を持つバンドであり、9月にアルバム「聖飢魔II〜悪魔が来たりてヘヴィメタる」でデビューしたが、ヘヴィメタル雑誌の「BURRN!」では0点という評価を受けた。しかしこのアルバムの評価が0点だからと言って単純に駄作と切って捨てられる様なものではなく、BURRN!編集部の藤木昌生はこのアルバムを高く評価している。とはいえ、聖飢魔IIはBURRN!の0点のレビューが1つのきっかけとなり既存のメタルファンよりもJ-POPファンに訴求の中心軸を置く販売戦略を選び、結果的に音楽業界で一定の成功を掴み取ってゆくこととなる。
同年10月10日、「JAPAN HEAVY METAL FESTIVAL」が東京の日比谷野外音楽堂で開催された。これには新進気鋭のANTHEM、FLATBACKER、聖飢魔II、RAJAS、ベテラン格になっていたMARINO、海外からの招待ゲストとしてスウェーデンのシルヴァー・マウンテンが出演。当時のYOUNG GUITAR誌の記事にはMARINOが登場した頃に会場が盛り下がり始め、デビューしたばかりのANTHEMやFLATBACKERなどの新しい血を求めたファンが圧倒的に多かったと記載している[19]。実際、バンドとしての全盛期を過ぎていたMARINOはこの1985年、X-RAYは翌1986年にレコード会社から契約を打ち切られ、解散の道を選ばざるを得ない状況にまで追い込まれている。
1980年代後期[編集]
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1980年代後半は、LOUDNESS、VOW WOWに続いてANTHEMがLAでライブを行い、1987年にFLATBACKERが『E・Z・O』へ名前も音楽性も変えてジーン・シモンズのプロデュースによるアルバム『E・Z・O』で世界デビューし、全米チャート入りを果たした[20]。同年にはVOW WOWの楽曲「DON'T LEAVE ME NOW」が全英シングルチャートのトップ100に3週チャート・インした[21]。そして、聖飢魔IIを脱退したギタリスト大橋隆志も渡米後にアメリカ人と結成した日米混成バンド「Cats In Boots」で1989年に世界デビューを果たすなど、日本発のHR/HMシーンが開花し、ひとつの頂点を極めようとしていた時期であった。
この時期、日本国内のメタルシーンは徐々に失速の兆しを見せていた。1987年、レコード会社移籍をきっかけに44MAGNUMが「ヘヴィメタルなんかもう古い」という理由で「ポストBOØWY」[注釈 3] とも呼べるポップなロック路線への転換を行う[22]。だが、それまでのファンから猛反発を喰らい人気は急降下、結局はバンドそのものが方向性を見失い、1988年に打ち込みの導入に反発したドラムの宮脇“JOE”知史が脱退、その後、立て直せぬままに翌1989年解散。MAKE-UPも1986年にテレビアニメ『聖闘士星矢』の主題歌「ペガサス幻想」でヒットを飛ばしたものの、翌年解散。その一方、この時期には元LAZYの影山ヒロノブがアニメ・特撮の主題歌を数多く手掛ける様になるなど、少なからぬメタル系ミュージシャンが自身の生活と芸能活動の維持のために、メタル系以外への芸域の拡大を模索し始めていた。影山は1990年代以降、一部の楽曲でゴールド・ディスクを獲得したり、ミリオンヒットを飛ばすなど[23]、アニメソングの分野で兄貴分としてのポジションを確立し、ジャンルの牽引者の1人となる。ヘヴィメタル・クイーンと呼ばれた浜田麻里も1989年に「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」のリリースを機に、脱ヘヴィメタルを宣言[注釈 4]し、転じたJ-POPシーンでブレイクし、1990年代前半まで安定した人気を保つ事となる。
他方で、ANTHEMは1987年にボーカル坂本英三が脱退し、後任に森川之雄が加入、また、この時期から音楽性の幅が広がっていったにも関わらず人気は鈍化傾向で、興行面という意味においての苦戦が続いていた。海外に展開していたFLATBACKER改めE・Z・Oも活動順調とは言い難く、アメリカで苦戦を続けるメンバーは、所属事務所の戦略により隈取を施した“忍者メタル”などという一種のキャラクター路線まで模索を余儀なくされていた。同じく海外進出していたLOUDNESSは1989年にボーカリスト二井原実を解雇し、アメリカ人のマイク・ヴェセーラを起用した。ボーカルが交替したLOUDNESSはアルバム「SOLDIER OF FORTUNE」をリリースする。このアルバムは日本国内のみならず、アメリカ市場においてもセールス的に失敗。ヴェセーラ在籍時の全米ツアーも1度だけと苦境に立たされる事となった[25]。
この1989年には、聖飢魔IIが極悪集大成盤(ベストアルバム)「WORST」を発布し、メタル系バンドとしては初めてオリコンチャートの1位を記録した。 また、メタル系バンドとして初めてNHK紅白歌合戦』に選出され「白い奇蹟」を披露したが、「白い奇蹟」はメタル・ナンバーではなくバラード・ナンバーである。
1980年代後期 -インディーズ・メタルブーム-[編集]
他方で、この1980年代後半の日本のロックシーンには、バンドブームとイカ天ブームが起こり、そのブームは1990年代初頭まで継続した。バンド・ブームではその後に元AROUGEの橘高文彦が加入することとなる筋肉少女帯や、LAメタル系のハード・ロックンロール・バンドZIGGYらがその恩恵を受け、イカ天からは1970年代初期系和風ハードロックの人間椅子やグラム・ハード・ロックのマルコシアス・バンプらが登場している。
ヘヴィメタルバンドも多分に漏れず、例えば、関東ではプロージョン系[注釈 5]や鹿鳴館系[注釈 6]などと主に女性ファンから呼ばれ、どのライヴハウスも女性客で溢れ返った。
この当時、インディーズシーンの牽引役となった主なヘヴィメタルバンドとしては、REACTION、MEPHISTOPHELES、DEAD END、D'ERLANGER、X、CASBAH、HELLEN、DEMENTIA、JURASSIC JADE、JEWEL、MURBAS、UNITED、URGH POLICE、TILT、SNIPER、OUTRAGE、PRESENCE、SYXE、MEIN KAMPF、SAVER TIGER(横須賀)等が「ロッキンf」誌で挙げられている。
この時期のジャパメタの新鋭は、モトリー・クルーなどのLAメタルからの影響を受けたバンド(REACTION、D'ERLANGER、DEAD ENDなど)がいる一方で、メタリカやスレイヤー等のスラッシュ・メタルからの影響を大きく受けたタイプ(OUTRAGE、UNITEDなど)もいるが、前者はその後のヴィジュアル系へと受け継がれていった。その双方の要素を併せ持つXなどのバンドもいたが、DEAD ENDやD'ERLANGERの様にヘヴィメタルからやや離れた音楽性に変化したバンドも存在していた。
これらのバンドで後にメジャーシーンでのデビューまで辿り着けたのはREACTION、DEAD END、X、OUTRAGE、UNITED、TILT、PRESENCE、D'ERLANGERくらいで、特に大きな成功を収めたのはXであるが、デビュー前のXの評価はDEMENTIA、横須賀SAVER TIGERらと共に「関東三大粗大ゴミバンド」などと酷評されていたが、当時、DEMENTIAに在籍していた小杉茂によると、この呼び名の名付け親はUNITEDのメンバーではないかと推測している[26]。その他のメジャーデビューに至らずに終わったバンドでも、MURBASには廣瀬洋一、URGE POLICEには吉井和哉といった後に大成功を収める「THE YELLOW MONKEY」のメンバーが在籍していたり、DEMENTIAにはX - LOUDNESS - DTRの沢田泰司や現UNITEDの吉田“HALLY”良文(g)、後にハウリング・ブル・エンターテイメントを立ち上げる小杉茂(Vo、当時のステージネームはGEESS)、現TOKYO YANKEESのU・D・A(Ds)が在籍、JEWELには後にmedia youthやhideのバンドに参加したKIYOSHIが在籍、MEIN KAMPFには後にCRAZEに加入する藤崎賢一やAIONのIZUMIが在籍、HELLENには後に六三四Musashiに加入し、アニメの劇伴などでも活躍する高梨康治、PRESENCEやJACKS'N'JOKERのベーシスト、恩田快人は後にJUDY AND MARYを結成し成功を収めているなど、後年様々な音楽シーンで活躍する人物が在籍していた。
また、MEPHISTOPHELESは1987年に解散しているが、2001年に再結成した際にVAPよりアルバム「METAL ON METAL」でメジャーデビューしており、メンバーの一人だった沢井比河流は実父である沢井忠夫の後を継いで沢井箏曲院の筝曲家としても活動を続けている。
1980年代末期 -既成概念を打ち破ったXのメジャーデビュー-[編集]
1989年、X(後のX JAPAN)のメジャーデビューにより、日本のヘヴィメタルシーンの流れが大きく変わった(2014年、ニューヨークでの記者会見より)
1986年、Xはメジャーレーベルでのデビューを目指して『上海紅鯨団が行く』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』といった視聴者参加型番組などへの積極的なメディア露出を始める。その一方で、Xのリーダー・YOSHIKIは当時の「ロッキンf」や「BANDやろうぜ」等の音楽雑誌編集部に「Xがテレビに出演する理由」という内容のFAXを送り付けた。だが、Xも当初はそのキャラクター的な過激さを期待したバラエティ番組への出演が中心で、実際のところは「ちょっと過激な音楽もできるイロモノ芸人」という扱いであった。Xはもとより、メタル自体がまだ邦楽の中での歴史も浅く、ビッグヒットも無い、テレビ業界的には“売れ線”ではないジャンルであり、「ロック音楽の中のイロモノ」に過ぎなかったのである。なお、一般的な偏見の大きな元凶となった『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「ヘビメタ」シリーズ企画は、そもそもLOUDNESSとも仕事上の親交もあり、ヘヴィメタルを愛好していた総合司会のビートたけしの側近的立場であった森昌行が、日本の若いヘヴィメタルバンドを応援する企画はどうか、と総合演出のテリー伊藤に提案したが、ヘヴィメタルの魅力を全く理解出来なかった伊藤による誤解、偏見で「目立ちたがり屋の馬鹿=ヘビメタ」と歪んだ認識で企画を立て、知名度を得たい若手アーティスト達を利用し、馬鹿にするコーナーにしてしまっていた。森も初回放送後に苦言を呈したが、伊藤はまったく聞く耳を持たなかった。
そのXがインディーズバンドとして活動していた頃、パンクスによる「メタル狩り」と呼ばれるメタルファンとメタルバンドに向けた暴力行為や、メタルヘッズによる「パンク狩り」が横行していた時代でもあった[27]。実際、DEAD ENDのヴォーカリストMORRIEは当時のヘヴィメタルとハードコア・パンクは仲が悪かったと述べている[28]。一方で、1986年ごろには「GASTUNKとDEAD END、あとはCOBRA、CITY INDIANと一緒に」ライブをしたこともあると語っている[28]。XもG.I.S.M.やGAUZE、MASAMIと言ったハードコア・パンク系のバンドやミュージシャンとの繋がりがあった為、パンクスと喧嘩になりそうな場合、Xと繋がりのあるバンドや関係者であると知ると丸く収まると事があり、いかに当時のXがインディーズメタル界で影響力があったかと言うことを後年、ライブハウス「目黒鹿鳴館」の関係者が明かしている[29]。その後、1980年代後半になると、状況は変わっていく。1987年に結成されたデスメタルバンドHellchildのメンバーは、「同年代の友達はジャパコアが多かった」、「ハードコアの奴らも当時けっこうEXPLOSIONに集まってた」と証言しており、「(メタルヘッズとパンクスの不仲は)全然ないですよ。HELLCHILDはパンク系の対バンのほうが多かったかもしれないですね。半々くらいかな」、「同世代では、ハードコアの人たちもスラッシュメタルを聴いてたし、スラッシュメタルやってる人もハードコアは聴いてたし。別に敵対するようなところはなかったですよ」と述べている[30]。
他方で、従来のメタルバンドやミュージシャンがメタル専門誌以外のメディアに露出することは少なかった。メタルに関する情報が全般的に不足気味であった間に、X(主にYOSHIKI)をはじめとするTHE HAIRのバーバラ・アキタダ、DISTOMAのハードコアユキ、BAVETYのジン・スズキらによるパフォーマンスが、音楽的な興味や知識を持たないバラエティ番組(特に「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」[注釈 7])や女性週刊誌などで興味本位的に弄り回され、ヘヴィメタルのアイコンとされた事が原因で、それまでヘヴィメタルという言葉さえ知らなかった世間一般には、ヘヴィメタルの人たちは染髪している、ガリガリに痩せていなければならない、やたら火を吹く、凶暴なキャラクター性、などといった誤ったパブリック・イメージが定着してしまう事となった。
これ以前の1980年代中盤から、初期の聖飢魔IIをさらに過激にしたようなイメージがヘヴィメタルを示すある種の記号としてマスコミやサブカルチャーでは用いられていたが、この時期以降になると、XやさらにXの影響を色濃く受けた初期ヴィジュアル系の様な偏ったイメージをさらに誇張表現した極端なキャラクター様式がそれに混ぜ込まれ、さらにはメタルと同様にヴィジュアル系に影響を与えたパンク・ロックともない交ぜにされ、漫画やドラマでヘヴィメタルを表現する際の視覚的フォーマットとして定着してしまった。2000年代に入ってからでも、デスメタルをテーマとしたギャグ漫画ではあるが「デトロイト・メタル・シティ」がこのフォーマットを利用して作品の形成と人気獲得に成功し、映画化などメディアミックス展開もなされている。
この様な出来事から、1980年代当時のBURRN!編集長であった酒井康は一般層に浸透しているヘヴィメタルのイメージが「長髪、化粧、騒音、馬鹿」になっていると嘆き、宣伝目的で安易にバラエティ番組に出演するバンド側に対し「メディア(の影響力)は怖い。出演している側がシャレと思っていても、知らない人はマジで受け止めてしまう」と危惧すると同時に「ヘヴィメタルを理解していない人達、つまり、一般メディア、マスコミ、それらに利用されているとは思わない頭の良い日本のバンド様によって一般大衆に“ヘビメタ”という言葉だけが浸透していっただけ」と痛烈な皮肉と批判を口にしていた[32]。
一方でYOSHIKIは後年のインタビューで1980年代当時の日本のヘヴィメタルシーンについて以下のようなコメントを残している。
「当時のシーンというのが、ANTHEMとかが盛り上がっていた頃で、まるで評論家に褒められるのが目的かの様に、一生懸命真面目に音楽をやる事が良いとされる様な、まるで学校に行くような雰囲気が漂っていたんですよ。“メイクなんかしないで、キチンと音楽やるのがいい”みたいな。それが凄く嫌で、だったらもっとムチャクチャやってやろうと思って、そうしたら今度、そのムチャクチャさ加減にHIKARUとJUNが辞めてしまった」— YOSHIKI[33]
既成概念を嫌い、破壊の美学を信条とし、ロックの世界に自由な表現を求めていたYOSHIKIにとって当時のヘヴィメタルシーンは決まりごとの多い保守的な印象が強く、上京後にヘヴィメタル以上の過激なステージングを行っていた当時の日本のパンクシーンの存在を知ってからパンクにも傾倒し、既存のヘヴィメタルだけでは物足り無さを感じ、前述の様に派手なメイクとステージパフォーマンスを繰り返していた。しかし、その代償として一部のライブハウスの出入り禁止や音楽評論家や専門誌から強いバッシングを受けるようになった[34]。その中でも日本のバンドに冷酷な評価を下すことで知られていたBURRN!は編集部の一人であった増田勇一がDEMENTIAのシングル「STRUGLE FOR REVEL」のレビューで「“スピード歌謡”みたいな『X』よりは好感持てるけど」と、こき下ろしたレビューを書き、記事を読んだYOSHIKIが「いつか見返してやります」と書いた抗議の手紙をBURRN!編集部に送り付けたことがあった[33][35][36]。
評論家からは、これでもかとばかりに攻撃を受けましたね。僕も黙っていればいいのに「何が悪いんだ!」って、抗議の手紙を書いたりして(笑)。評論家が誰だったかは覚えていないけど、雑誌が『BURRN!』だったことは覚えてます。その頃、いろいろなバンドから「YOSHIKI、ちゃんと音楽やった方がいいよ」って言われたことがよくありましたね。自分としては、ちゃんとやってるつもりだったんだけど、メイクしたり、頭を立てたりといった派手な部分しか周りには見えていなかったんですよね。その頃、“ポーザー、ノー・ポーザー”という区分けが流行っていて、俺は“そんなの関係ないじゃん!”と反発心を抱いてました。単純に暴れたかったんですよね、その時は(笑)— YOSHIKI[33]
評論家や専門誌のバッシングに耐えながらもテレビ出演やライブ活動で着実にファンを増やしたXは1988年4月にリリースした1stアルバム『Vanishing Vision』は初動1万枚以上と、当時のDEAD ENDの1stアルバム『DEAD LINE』を記録を塗り替え[37]、インディーズとしては記録的なセールスを上げ、インディーズ・レーベルながらメジャー・チャートにランクインを果した日本史上初のアルバムとなった。最終的な累計売上は100万枚を超えた[38]。また、対立関係にあった増田とは和解し、以降はBURRN! JAPANをはじめ21世紀以降もフリーライターとなった増田からの取材を受けるなど友好的な関係を築いていった。そして、1989年4月21日にCBSソニーよりメジャーデビューアルバム『BLUE BLOOD』をリリースし、1990年には日本武道館、1991年には『Jealousy』リリース直後にデビュー2年4か月にして東京ドーム公演を行うなど既存のヘヴィメタルバンドでは成しえなかった記録を次々と打ち立てることとなった。それと同時にXの目覚ましい活躍ぶりは日本のヘヴィメタルシーンが少しずつ確実に衰退する原因となり、ヴィジュアル系ムーブメントの幕開けでもあった。
1990年代 -冬の時代-[編集]
「ヴィジュアル系」も参照
世界的にはグラム・メタルが衰退し、オルタナティヴ・ロックやグランジ、グルーヴ・メタルブームの幕開けであったが、日本に限れば、Xを端緒としたヴィジュアル系の全盛期の幕開けであった。SHOXXの元編集長鈴木ぽっくんと音楽ライター長澤智典の対談では、ヴィジュアル系の音楽的な要素としてポジティブパンク[注釈 8]とヘヴィメタルが挙げられている[39]。実際にポストパンクやヘヴィメタルからの影響を語っているバンドとしては、TRANS RECORDS所属のASYLUM[40]やDEAD END[41]から影響を受けていた黒夢、デュラン・デュラン[42]やジャパニーズ・メタル[42]から影響を受けていたLaputa、ザ・キュアー[43]やGASTUNK[39]から影響を受けたL'Arc〜en〜Ciel、Japan[44]やAION[45]からの影響を語っているLUNA SEA[39]などがいる。他にも、音楽性でメタルの流れを汲んでいたものとして、La'cryma ChristiやSIAM SHADEが市場的成功を収めた。ニュー・ウェイヴやポストパンクを扱っていた雑誌であるFOOL'S MATEはヴィジュアル系バンドを積極的に取り扱ったが[46]、その一方でロッキンf以外のヘヴィメタル雑誌がヴィジュアル系バンドを取り扱うことはなかった。
ヴィジュアル系という言葉の起源となったともいわれる[47]Xは順風満帆とは到底言い難い活動状況に陥ってゆく。1992年、TAIJIを解雇すると同時に海外進出を企図して「海外の同名バンドとの商標問題(名称競合)の回避」という理由でバンド名をX JAPANへと改め、以降も新曲をリリースすればオリコンチャートでは必ず5位以上の上位に食い込んだものの、アトランティック・レコードと契約し、世界進出を始めようとした頃にはYOSHIKIの英語の勉強・アメリカでの活動の際の弁護士とマネージャー等の著作権方面に対応できるパートナーのスカウト・Toshlの英語発音の問題やYOSHIKIの持病によりレコーディングが長期化し、更には市場のターゲットとしていたアメリカではニルヴァーナ等のシアトル発のグランジが注目されていたので、「今出しても売れない」と判断したため、このアルバムでの世界デビューを断念せざるを得なくなった[48]。 そうした事情によりシングルのリリースですら1年に1枚がやっとというスローペースであり、アルバム『DAHLIA』に至っては5年間もリリースできない状態に陥る。また、Xを解雇されたTAIJIこと沢田泰司は、上述した様にLOUDNESSへの電撃加入という形でメタルの世界に舞い戻ったものの、彼もまた著しいスランプや公私のトラブルが重なり、1990年代後半の一時期にはホームレスも同然という状態にまで転落していった。
ヴィジュアル系が流行した一方で、ジャパニーズメタルは氷河期を迎えた。特に1990年代に入ってから、邦楽のメタルはジャンル全体として衰微傾向が顕著となり、1990年にE・Z・O、VOW WOW、DEAD END、Cats In Boots、1992年にANTHEM、1993年にBLIZARD、1994年にEARTHSHAKERと、1980年代のメタルシーンを第一線で支えたバンドが次々と解散・消滅してゆく。女性バンドSHOW-YAはすぐには解散しなかったものの、サウンドの中核であったボーカルの寺田恵子が1991年に脱退、その後は新ボーカルにアメリカ人シンガーのステファニー・ボージェスを迎えたものの、セールス的に退潮傾向を食い止められずステファニー脱退後はインディーズに場を移し3人目のボーカルを加えて再スタートを切ったものの、結局1998年に解散。海外を中心に活動にしていたバンドや日本人ミュージシャンを見ても、E・Z・Oは日本への凱旋を果たせぬまま、1990年に現地解散。VOWWOWはアルバム『Mountain Top』の海外での売り上げが伸びなかった事と厚見玲衣の脱退により解散、一時はアメリカで成功したかに見えた日米混成バンドのCats In Bootsもマネジメントのトラブルやメンバー間の不和が続き、1990年に解散し、大橋隆志は活動の場を求めてニューヨーク、ロサンゼルスと渡り歩くも、1995年帰国。
1992年、元E・Z・OのMASAKIと、元XのTAIJIこと沢田泰司がLOUDNESSに加入し、これと同時に、LOUDNESSの楽曲はグルーヴ・メタルのようなスタイルに変貌した。その話題性の高さでオリコンチャート初登場2位という記録を打ち立てたが、翌年には所属事務所の契約上の問題や沢田と樋口の脱退といったトラブルが相次ぎ、第3期LOUDNESSはたった1年で幕を閉じた。
ジャパメタ・バンドの多くが解散やメンバーの脱退に見舞われ、尻すぼみになっていく状況下の1994年、EARTHSHAKER、LOUDNESS、BLIZARDの元メンバーによるスーパー・バンドSLYが結成され。メジャー・デビューを果たしている。が、商業的に成功とは言い難く、98年に事実上解散。また、戸城憲夫、新美俊宏、横関敦らによるLANCE OF THRILLも同1994年にメジャー・デビュー。このSLYとLANCE OF THRILLは世界的なグランジ/オルタナティヴ・ロック・ムーヴメントに呼応するメタル・サウンドをそれぞれ展開していったバンドだが、この1990年代中盤~後半におけるOUTRAGEやLOUDNESSの音楽的な変貌もこのグランジ/オルタナ・ムーヴメントを意識したものであった。
メジャーシーンでどうにか生き残ったバンドとしては聖飢魔IIがいた。1990年代の同バンドはサポートメンバーによる電子楽器を多用し、ハードロックを主軸としてプログレッシブ・ロックからポルカやフォークソングまで多種多様なジャンルの音楽を積極的に取り込んだ。
また、バブル景気崩壊後の急激な日本経済の縮小の中、業態再編や利益性・費用対効果の向上に追われた企業体質の変化の過程の中で、メタル系はメガヒットが出ない事などから収益性が低いジャンルと見なされ、メジャーレーベルの多くがメタルバンドに対して契約解除を行った。契約解除の理由については、契約(期間・内容)の満了・CDの売上不振・レコード会社側の経営戦略の見直しの一環・レコード会社とバンドの方向性の不一致・バンドメンバーの不祥事や性格的問題など色々と付けられていたが、いずれの理由にしたところで結局は、新旧数多くのメタルバンドがメジャーレーベルを追われ、新たな契約先を求めて音楽業界を彷徨う、あるいは、インディーズでの活動への転換など、苦難の道を強いられる事になってゆく。だが、メジャーレーベルから契約を解除された後、他のメジャーレーベルで新たな契約を得てメジャーシーンで活動を継続できたバンドはそれほど多くはなく、むしろ、この時期に解散や活動休止に追い込まれたバンド、活動の基盤を失ったメタルミュージシャンは数多い。
この様な厳しい状況下で、1980年代のジャパメタシーンを第一線で支えたミュージシャンですら、メタル一筋では生活してゆくことすらままならなくなる者が続出した。中には生活費と音楽活動の資金・コネクションを確保・維持するため、あえてメタルの看板を外して、J-POP系やアニメ関連楽曲の作曲やプロデュース、バックバンドに活動の軸足を移し、活動範囲を拡大していった者や、専門学校などの講師やライヴハウス・録音スタジオのスタッフになり、現在ではそちらが事実上の主業になっている者もいる。また、メジャーシーンから姿を消した者の中にはメタルとおよそイメージのかけ離れた世界に生活の糧を求めた者もいる。例えば、元ANTHEMの坂本英三が後述するアニメタルでブレイクするまでは会社員やタクシー運転手を主業としながら音楽活動を続けたり、商業音楽の世界に失望した元VOW WOWの人見元基が「コマーシャルな世界で歌いたくない」という理由で音楽業界から引退した後に地方公務員(高校の英語教師)に転職した。但し坂本は現在もソロ活動の傍ら、音楽学校の講師としても活動しており、人見も業界からは遠ざかっているが学校が夏休みや冬休み等がある時期は大谷令文らを率いてカヴァー曲を中心にライブ活動を行っている。
新進のメタルバンドについても苦難を耐え忍ぶ時代となった。元来はメタル系の音楽を志向・追求していたものでも、メジャーデビューを目指すにあたっては、その販売戦略上の各方面からの要求などで路線変更に追い込まれてゆくケースや、さらには「メタルだから」という理由でライブハウスから門前払いにも等しい扱いをされるなど、演奏の場を確保する事すらままならない者さえ出てきた[注釈 9]。
これらの結果、音楽性としてヘヴィメタルを前面に押し出すスタイルのバンドは影を潜め、ジャパニーズメタルバンドとして安定した活動を続けていたLOUDNESSも、1990年代の終わりまでは高崎晃以外のメンバーチェンジを繰り返しながら細々とした活動を余儀なくされる事となった。日本人及び従来のファンに理解し難い音楽性に傾倒したことも、人気の低下に拍車をかけており、90年代末期に発表した作品は、売り上げ1万枚を下回るほどの深刻な不人気に陥った。
日本より海外での評価が高いSigh(2008年)
メジャーシーンで広義の意味でのハード・ロック/メタル的なサウンドを鳴らした音楽ユニットとしてはB'zがいる。冬の1990年代にミリオンヒットを連発し、ハード・ロック・ギター・サウンドを日常的なサウンドにしたのである。しかしB‛zがハード・ロック/メタルと見做されることはなく、シーンの氷河期を打破するどころか、むしろ冷え込みを強めてしまう。
一方で、エクストリームメタルを中心としたアンダーグラウンドシーンでは、新たなムーヴメントが勃興していた。1990年に結成されたブラックメタルバンドSighは[49]、ブラックメタルの本場であるノルウェーシーンとテープトレードなどで交流を深め、1993年には1stアルバムをユーロニモスのレーベルデスライク・サイレンス・プロダクションからリリースしている[50]。
デスメタルシーンでは、1980年代後半頃からスラッシュメタルのサウンドで活動していたHellchildが、デスからの影響を受け徐々にデスメタルへと移行[51]。同時期に活動していたグラインドコアバンドMULTIPLEXと共に、当時の日本のデスメタル/グラインドコアシーンを作り上げていく存在となる。他にもVoidd、BELETH、NECROPHILEなどのバンドが存在した。1990年代後半にはDEFILED、VOMIT REMNANTSなどのバンドも活躍している[52]。また、1991年にはIntestine Baalismがメロディックデスメタルバンドとして登場している[53]。
1990年代後半[編集]
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一時期はいつまで続くのか際限が見えなかったジャパメタの氷河期は、1996年末、誰にも想像できなかった形で一応の終焉を迎える事となった。
きっかけを作ったのはギタリストの野村義男とプロデューサーの久武頼正で、2人の軽い冗談の会話からアニメソングをヘヴィメタル様式で演奏するアニメタルが企画された事による[54]。アニメタルのボーカリストとして元ANTHEM(当時)の坂本英三を迎えようと考えた久武は早速交渉し、当時会社員生活をしていた坂本も承諾。そして1996年末にアニメタルは「さかもとえいぞう」名義のソロ活動という形でデビュー。従来、ヘヴィメタルを扱っていた音楽マスコミやFMラジオのみならず、テレビなどの一般マスコミからも大きな注目を集めブレイクした。翌年にはギターに元ガーゴイルの屍忌蛇、ベースにココバットのTAKE-SHIT、ドラムスにガーゴイルのKATSUJIをそれぞれ起用し、SMEより、2ndシングル「This is ANIMETAL」を発表。次いで、屍忌蛇(ギター)、元JACKS'N'JOKERのMASAKI(ベース)、元リアクションの梅沢康博(ドラムス)という編成で、1stアルバム『アニメタルマラソン』をリリースし、約30万枚の売上を記録し、バンド体制で活動を開始し、デビューアルバム「アニメタル・マラソン」をリリースする。
この「アニメタル・マラソン」がヘヴィメタルファンだけでなくアニメファンからの支持も得られ、また宴会芸ソングとしてカラオケについても一定規模の需要の創出に成功した。
だが、アニメタルの商業的成功は当時のメタル業界にとって非常にインパクトのある出来事であり、影響は程なくして現れた。果たして、これを見た数多くのメタルミュージシャンが一斉に追随したのである。かくて、これ以降の数年間にわたり「○○メタル」などと銘打った似たような企画型メタルバンドの乱立が続くこととなる。その中には1980年代、正統派ヘヴィメタルとしてイロモノや企画ものを嫌う言動をしていた者も少なからず混じっていたのは、当事者のみならず、その時代を知る者にとっても皮肉な光景であったというより他にない。だが、これは同時に、メタルの世界で知名度の高い正統派メタルミュージシャンでさえ正統派ヘヴィメタルの音楽一筋だけでは生活していけない者が当たり前にいた、当時のメタル氷河期の現実を如実に見せつけた光景でもあった[注釈 10]。また、このアニメソングを利用した企画盤の制作という手法はメタル分野以外からもさらなる追随者を生み出し、テクノ・ユーロビートなど1990年代後半に市場的退潮に悩んでいたものを中心に幅広いジャンルで「アニ○○」などと銘打った企画盤CDが数多く作り出されることとなった。
また、メタルミュージシャンでもバンド解散後にスタジオミュージシャンとして活動していた者などを中心に、アニメ・特撮の主題歌やイメージソング、テレビゲーム・アダルトゲームの主題歌・サントラなどの作曲やプロデュース業へと本格的に進出する流れは1990年代前半からあったが、こちら側で注目を集める者が次々と現れたのもこの1990年代半ば以降のことである。彼らの進出によりそれまではあくまでアイドル歌謡や子供向け音楽の延長線上的な色合いが比較的濃かったアニメ・ゲーム業界の音楽が、音楽番組などでそのまま流しても違和感の無いレベルまで洗練・先鋭化され、時として単なる劇伴や販売促進の域を超える話題性を持つものも現れる様になった。なお、このメタルミュージシャンとアニメ・ゲーム業界が繋がる流れは現在もなお続いており、1980 - 90年代のメタルミュージシャンとして知られる者の中には、現在ではこちらが事実上の活動の中心となっている者も存在する。また、ニトロプラスの様にアダルトゲームのメーカーながらも主題歌にハードなメタルの曲を使用して、メタルファンにまでその名を知られる様になったメーカーも存在している[注釈 11]。その他、この様なスタイルで現在音楽活動を行っている若手・中堅のミュージシャンの中にも、1980年代から90年代のジャパメタのフォロワーとしてのスタイルを時折見せる者が存在している。
1997年9月、X JAPANがTOSHIの脱退を理由に解散を発表、同年の大晦日の東京ドーム公演を最後に解散する。それから約半年後の1998年5月2日、Xの元メンバーでも当時最も好調な活動を見せていたはずのhideが急逝。[注釈 12]hideの告別式は築地本願寺に関係者・ファンなど約5万人が参列した大規模なものとなった(詳細はhide#hideの死の項目参照)。 また、同じ時期に、1980年代のヘヴィメタルシーンをリードしたギタリストとして知られる、元BLIZARD元TWINZERの松川敏也が、音楽シーンから姿を消している。[注釈 13]
他方で、1998年になると、8月にバップから正統派のネオクラシカル系ヘヴィメタルバンドのConcerto Moonがデビューを飾り、5月にはコミカルな歌詞とパフォーマンスかつ本格的なメタルサウンドが特徴のSEX MACHINEGUNSが東芝EMIシングル「HANABI-la大回転」、10月にはアルバム「SEX MACHINEGUN」でデビューした。
Concerto Moonは比較的コアなメタルファンにしか浸透できなかったものの、SEX MACHINEGUNSは露出するための戦略としてあえてヴィジュアル系のようなメイクをしたことの他、「みかんのうた」のようなコミカルで特徴的な歌詞などからカラオケでの需要などが大きく発生し、2000年以降「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」や「堂本兄弟」などの音楽番組にも数多く出演していた。これが奏功してメタルファン以外にも受け入れられていったが、そういったバンドの姿勢を嫌うある意味では保守的な思想のメタルファンの存在も、彼らの登場によって再び表面化する事となった。
1999年4月、メタル氷河期をメンバーチェンジもなくメジャーシーンで耐え抜いた数少ないバンドの一つである聖飢魔IIが、デビュー当時の公約どおりに同年末をもっての解散を予告し、解散前に怒涛のアルバムリリースラッシュと7月から大晦日までの長期ツアーを敢行、年末の東京ベイNKホールのライヴを最後に活動に終止符を打った。[注釈 14]
1999年の12月には、筋肉少女帯を脱退した橘高文彦、SLYが活動停止となった二井原実、そして爆風スランプのファンキー末吉&バーベQ和佐田の4名によって結成されたX.Y.Z.→Aが1980年代から続くピュアなジャパニーズ・メタルを旗印にするデビュー・アルバムをリリースしているが、自主レーベルを立ち上げての発売であった(販売網はキング・レコードに委託)。この布陣をもってしても音楽性が「メタル」ではメジャー・レーベルとの契約は困難な、厳しい時代だったのだ。
『BURRN!』編集長である広瀬和生の証言によれば、日本市場でのBURRN!の発行部数と国内外問わずヘヴィメタルバンドのアルバムの売り上げが最も多かった時期は1997年との事である[55]。
2000年代 - ベテランバンドの再結成と、オズフェスト世代の登場 -[編集]
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "ジャパニーズ・メタル" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年10月)
1998年のLAZY、BOW WOW、1999年のEARTHSHAKER、2000年のLOUDNESS、2001年の44MAGNUM、ANTHEM、2005年のSHOW-YAなど、ベテラン格のバンドが次々と再結成を果たした。その他、期間限定ながら全盛期のメンバーが再集結して活動を行うバンドも、2005年の聖飢魔IIを始めとして幾つか見られている。極めつきは2007年のX JAPANの再結成であり[56]、前述のHIDEの死、TOSHIの宗教絡みのトラブルやYOSHIKIの迷走などを背景に再結成が絶対不可能なバンドとしてまず第一に名が挙がる存在であっただけに、世間の驚きは大きなものがあった。
これらの影響か、2000年代中ごろからは、既に解散しているバンドについてベスト盤発売やライブ・セッションでの元メンバーの共演・ゲスト参加などをきっかけとして、マスコミやインターネットなど様々な経由で再結成の噂が聞かれる事も多く見られている。しかし、実際には単なる流言の域から出ないものであったり、検討されても現在の活動の多忙や、現在志向している音楽との方向性の違い、解散以前に発生した人間関係の齟齬などがネックとなり主要メンバーが揃わずに企画倒れに終わるものも多い。また、再結成を果たしたものでも、全盛期を支えた重要なメンバーが不参加のまま活動するバンドや、再結成の背景としてメンバーが抱える経済的な問題や困窮などの噂がつきまとうものも往々に見られる。そもそもメタルに限らず音楽業界全般の常として、過去のバンドの解散では多くのケースで大きな内輪揉めなどが起きており、それにも関わらず再結成して活動を行うのは、メンバーの多くが解散後に経済的困窮に陥り当座の収入を求めて過去のネームバリューに頼るために妥協をせざるを得なくなったか、あるいは喧嘩別れの解散後に関係が修復できたか、このいずれかであるのが実態であるという[57]。
この時代には、1990年代終盤からのKORN、リンプ・ビズキット、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンらを筆頭とするアメリカのラップ・メタルや、メタル界の帝王であるオジー・オズボーンが1990年代後半から開催するオズフェストに登場していたニュー・メタルのバンドに影響を受けた新鋭バンドが、1990年代末期から2000年代にかけて続々登場している。山嵐、RIZE、宇頭巻らがその先陣を切り、その流れにマキシマム ザ ホルモンなどが続いていった。筋肉少女帯を脱退した大槻ケンヂがNARASAKIらと結成した特撮や、樋口宗孝、山下昌良、横関敦らが結成したBLOOD CIRCUS、元桜っ子クラブのANZA率いるHEAD PHONES PRESIDENTなども、この新しい潮流を受けて誕生したものである。この新世代は1980~1990年代のジャパニーズ・メタル・バンドとの繋がりはほぼ皆無に等しかったものの、俳優でミュージシャンの押尾学が結成したラップ・メタル/ニュー・メタル・バンドLIVの2ndアルバムにはLOUDNESSの山下昌良がゲスト参加するなど、新旧メタル・アクト同士の交流も一部ではあった。
また、その一方でストリートカルチャーやヒップホップ要素なども盛り込んだSUNS OWLやBAT CAVE、SURVIVEなどがシーンに登場した。
1990年代からのアニメ・ゲームなどサブカルチャーとメタル業界の関係は2000年代に入ってもさらに発展が続いている。現在ではその影響はアニメのみならず特撮作品にも幅広く浸透しており、これら分野でジャパメタ分野でベテラン・中堅格として知名度を持つボーカリストが起用されるケースがしばしば見られる。
他方では、この時期、日本国内においてもメタル氷河期以前からメジャーシーンで活動していたミュージシャンについてはその多くが中高年の域に入ってきており、その加齢と共にガンなどの大病を患っての長期療養や訃報などの情報が聞かれるようにもなってきた。とりわけ2008年11月、LAZY・LOUDNESSなどでジャパメタシーンを支え続けた功労者の1人である樋口宗孝が49歳で肝細胞癌により死去した際には、その衝撃はメタルのみならず幅広い音楽ジャンルに及んだ。
2000年代中期~後期 -若手の伸び悩み、V系メタル-[編集]
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「レコード会社#メジャー・レーベルとインディーズ・レーベル」も参照
2000年代以降にデビューし、目立った活動をした主なバンド、アーティストには陰陽座、GALNERYUS、Cloud Nine、夜叉、BLOOD STAIN CHILD等がいる。
DIR EN GREY(2007年)
GALNERYUS(2016年)
マキシマム ザ ホルモン(2014年)
しかし、それらの大半はセールス・興行という観点で成功とは言いがたい、あるいは、一応成功しているにしても、そこから伸び悩む状況に終始しているのが実情である。日本産ヘヴィメタルバンドのCDが売れず、観客動員数も少ない背景として、当時のライブハウスの関係者は「バンド側が“自分達の音楽がわかってくれる人にだけ”やっている」「外の社会にそういう閉鎖的な見方でやっているから、結局、自分達も閉鎖的なカテゴライズされた世界に入ってしまっている」と分析し、[58]、ある大手レコード店の店長は、メタルのCDが国に関係なく売り上げが厳しいことを踏まえて、洋楽は純度の高いメタルは受け入れられているが、邦楽は純度が高いと受け入れられない、陰陽座やSEX MACHINEGUNSの様な他の要素が入ったバンドは成功していると分析し、「80年代のジャパメタのカッコ良かったエッセンスを受け継いでいるのは、ヴィジュアル系だと思うんですよね。視覚的なところ、フレージングひとつにしてもね。実際にメタルをやっている人は、そこをないがしろにしているような気がします」とも語っている[59]。
2006年には、DIR EN GREYが海外進出し[60]、日本のメタルバンドとして海外では 認知されるようになったものの、海外デビュー当時は、日本のメタル専門マスコミの関係者たちの間には、DIR EN GREYをメタルバンドとして認めない風潮が根強く存在しており、実際、2006年のLOUD PARK06に出演した際に、音楽評論家の伊藤政則が「BURRN!」誌上で「なぜ、LOUD PARKにヴィジュアル系が出演するのか?」と批判を繰り返しているなど、日本と海外での評価が大きく分かれていた。ただし、時間を経て状況は少しずつ変わり、2011年現在は「BURRN!」でもDIR EN GREYのインタビューが普通に掲載されている。 また、2003年にメジャーデビューしたムックも2005年にドイツで開催されたメタルフェスヴァッケン・オープン・エア への出場、2008年の「Taste of Chaos」でAvenged Sevenfold、Bullet For My Valentine、Atreyu、As I Lay Dyingなどのバンドと共演を果たすなど、海外進出を行った。他にも、2004年結成のラウドロック、オルタナティブ・メタル、メタルコア 等にダークさや美麗な歌メロを取り入れ、後にLOUDNESSや44MAGNUMやDEAD ENDなどの大御所と対バンをしたり、ラウドロック勢と盛んに交流をしながら全欧デビューも果たしたlynch.や。同じく2004年結成でニューメタル、ミクスチャー色が濃くヴァッケン・オープン・エアに出場したり、海外ツアーも行ったgirugamesh(ギルガメッシュ)、1999年結成のインダストリアル・メタル、ゴシックメタルの要素が強いD'espairsRayもヴァッケン・オープン・エアに出場(2006年8月)したり、実力のあるバンドが存在している(存在していた※)。※D'espairsRayについては、2011年6月15日付けで、girugameshについては、2016年7月10日に惜しまれつつ解散。
1992年から活動を続けるドゥームメタルバンドBORISは、2005年にサザンロード・レコーズ(日本ではDiwphalanx Records)からアルバム『PINK』をリリースし、全世界で5万枚のセールスを記録[61]、ピッチフォーク・メディアのTop 50 Albums of 2006では9位を獲得した[62]。また、2008年にはアルバム『Smile』の先行シングル「Statement」がビルボードのシングルチャートで初登場23位にランクイン[63]、アルバム『Smile』もビルボードのトップ・ヒートシーカーズで20位を獲得している[64]。2007年ごろからは、ポーティスヘッド、フレーミング・リップス、ペイヴメント、ナイン・インチ・ネイルズらとライブで共演を果たしている[63]。
2000年代後半にはVersailles、元Galneryusのメンバーが在籍するDELUHI、現「BURRN!」編集長の広瀬和生が高く評価を与えていたNoGoD等が音楽雑誌やネット上で注目を集めることとなった。サム・ダン監督のドキュメンタリー映画「グローバル・メタル」でマーティ・フリードマンがヴィジュアル系のファンとヘヴィメタルファン同士の対立の激しさを証言しているように[注釈 15]、ひと度ヴィジュアル系として認知されたバンドについては、その後に国産メタル以上に純度の高いヘヴィメタルを演奏しても認めない風潮があり、同映画でインタビューを受けたSighの川嶋未来は、サム・ダンの「ヴィジュアル系がメタルではないと思う理由は?」との質問に「メタルがクールだから、それが答えだ」と答えている[注釈 16]。
その他、音楽ライターの土屋京輔は、上記のバンドだけでなくマキシマム・ザ・ホルモン、9mm Parabellum Bullet、FACTのようなバンドも新世代のメタルバンドとして高く評価している。
かつてはSHOW-YAに代表された女性ボーカルのメタルバンドや女性メタル系シンガーについては、2000年代に入ってからはヘッド・フォン・プレジデント、HIGH and MIGHTY COLOR、LIV MOONなどの若手・中堅世代が登場している。また、いとうかなこ、栗林みな実、中野愛子の様にそもそもアダルトゲーム主題歌やアニメソングなどのサブカルチャーの分野から表舞台に登場し、周囲のメタル系ミュージシャンからHR/HMに近い様式の楽曲の提供を数多く受けているシンガーも見られる。
2008年にはSHOW-YAを中心とした女性ロッカーのためのイベント「NAONのYAON」の復活開催が行われ、かつての出演者以外にも新たに相川七瀬、長澤奈央らが出演し[65]、一時休止後の2013年には平野綾、中川翔子らが出演[66]するなど、HR/HM系の内外から幅広くミュージシャン、女優、シンガーが集まり、以降も継続的に開催されている。
2010年代 ガールズメタルバンドの躍進~海外再進出[編集]
2016年には2ndアルバムがビルボードアルバム総合チャート39位にランクインしたBABYMETAL(2014年)
2000年代より台頭してきたヴィジュアル系ヘヴィメタルバンドのうち、DELUHIが2011年4月1日のエイプリルフールの日に解散を宣言。2000年代後半に同人メタルシーンで注目を集めていたDragon Guardian、2009年結成のMary's Blood、2010年にはガールズバンド「Aldious」、2011年には女性ドラマーにパーカッションを加えた6人組バンドEach Of The Daysが海外デビュー、2012年にはCyntia、また、女性ボーカルを擁するLIGHT BRINGER、FEEL SO BADのギタリストである倉田冬樹プロデュースのUNDER FORESTがデビューしている。変わったところでは、アイドルグループさくら学院重音部所属のダンスユニットで「アイドルとメタルの融合」「カワイイメタル」[67]を謳った「BABYMETAL」が海外で注目を集める他、[68]BiSが「IDOL」をリリースするなど女性Voを擁したメタルバンドやグループの活躍が目立っている。 また、21世紀に於いても正統派HM/HRを貫くLIGHTNINGは、AVALONレーベルとディールを獲得している。
1996年から活動を続けてきたドゥームメタル/ストーナーロックバンドのチャーチ・オブ・ミザリーは、2011年に開催されたHellfest、Tuska Open Airという欧州の大規模なフェスに出演している[69]。デス・ドゥームの分野では、同じく1996年から活動を続けているCoffinsが2010年にMaryland Deathfestの出演を果たした(2008年、2014年にも出演している。)[70][71]。2013年には、大手のリラプス・レコードからアルバムをリリースし、それにあわせてヨーロッパツアーを行っている[72][73]。また、Maryland Deathfestにはブラックメタルバンドのアビゲイルも出演を決めている[74]。2014年には、1999年からチェコで開催され続けているエクストリーム・ミュージックのフェスティバルObscene Extremeが、ここ日本でも開催された[75]。
2019年9月のニューヨーク公演のBAND-MAID
2017年のデビューから1年後に海外進出したLOVEBITES(2018年)
2010年からLOUDNESSが再び海外再進出し、2001年から活動を続けるパワーメタルバンド・Galneryusは2014年の7月に初のヨーロッパツアーを敢行[76]。8月にはSUMMER SONIC 2014に出演を果たした[76]。また、2011年に海外で注目を集めたBABYMETALも2014年より本格的に海外進出をし、同年7月に出演した「Sonisphere Festival 2014」で日本の一般メディアにおいても大きな注目を集め[77]、2016年4月1日、2ndアルバム『METAL RESISTANCE』を世界同時発売[78]、オリコン週間チャートで2位となり自己最高位を更新したほか[79]、全英総合アルバムチャートで15位を記録し、日本人の最高位を41年ぶりに更新[80]、オーストラリアのARIAによる総合アルバムチャートでは7位を記録し、日本人初のチャートイン[81]、全米総合アルバムチャート(Billboard 200)では39位を記録し、日本人としては坂本九のアルバム『Sukiyaki and Other Japanese Hits』の14位以来53年ぶりにTOP40入りとなった[82][80][83]。
2012年頃からSURVIVEは本格的に活動方針を海外向けにシフトし、BehemothやOverKillなどと積極的にサーキットツアーを行うなどした。2019年9月には7thアルバム『Immortal Warriors』をワールドワイドリリースしている。
2017年にデビューしたLOVEBITESは、2018年8月にドイツで開催されたヘヴィメタルフェスティヴァル、ヴァッケン・オープン・エアに日本人女性のみで構成されたヘヴィメタル・バンドとしては史上初となるガールズバンドとして出演[84]。2015年にはメイド服を衣装にしたハードロックバンドBAND-MAIDも海外で注目を集め、2016年10月・11月、メキシコ、イギリス、ドイツ、フランス、ポーランド、イタリア、スペイン、香港の8ヵ国9公演のワールドツアーを開催[85][86][87]。
2019年5月に人間椅子が「無情のスキャット」のミュージックビデオをYouTube公開[88]したところ、同年6月に再生回数100万回、8月に200万回を記録し、特に海外から賞賛のコメントが集まったことが注目された[89][90]、翌2020年2月には初のヨーロッパツアーを敢行[91]。
しかし、2019年末に世界中を襲った新型コロナウイルスの影響により多くのバンドの国内外ツアーやフェスの出演が中止になるなど苦境に立たされることとなった。
2020年代 - 新型コロナウイルスによる活動停滞 -[編集]
2019年末に世界中を襲ったパンデミックはヘヴィメタル界も例に漏れず苦境に立たされることとなる。(詳しくは新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)、日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響#音楽・エンターテインメントを参照)
2020年2月よりヨーロッパツアーを敢行した人間椅子は同年3月にアメリカで行われるサウス・バイ・サウスウエストの出演が予定していたが[92]、中止となってしまう[93]。LOUDNESSも日本公演だけでなくヨーロッパ公演が延期[94]になるなどライブ活動を休止せざる得なかった。HER NAME IN BLOODが2021年7月に解散[95]。
ガールズメタルシーンではLOVEBITESの創設者でリーダーであったベースのmihoが環境の変化により脱退[96]、Mary's Bloodも2022年4月をもって無期限の活動休止を発表[97][98]。BABYMETALは「封印」
本当にロックはおくが深いジャンルだなと思いますが
the hello moonの大きいステージを見るのが楽しみです
頑張れーーーーーーーー
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